この国が『1984』化していることについて

1年とちょっと前に大学院の学内冊子的なものに寄稿した論文を公開します。



当時もこの国の政治に対して危機感を抱いていましたが、まさかここまで酷くなるとは思いませんでした。リアル『1984』が到来してしまいました。1984年のイギリスではなく、2010年代の日本で。


駄文かつ(いま改めて読み返すと)矛盾したり飛躍してたりする部分もありますし、いまの日本の状況に直接的に関わることが全てではありませんが、考えてることの本質はいまも変わりませんし、伝わると思います。


また、「虚構(=想像)」の部分に関しても、わかりにくい、誤解させてしまう内容になっています。簡単に説明すると、僕のいう「虚構(=想像)」はふたつあるんです。支配者が己の欲のためだけに生み出すそれと、支配に抗うために私たちが持ち続ける必要があるそれ、このふたつです。ただ、ちゃんと説明するとそれだけでこのエントリが終わってしまうので、気になる方は質問を飛ばしてください。



とにかくこの論文が、いまの(というかここ数年の)日本で何が起きている(いた)かを理解するきっかけになれば、という気持ちでいっぱいです。


トランプ政権が誕生したときにアメリカでは『1984』がベストセラーになったそうです。正直、その当時(といま)のアメリカよりも、この国のほうが『1984』です。なので日本でも『1984』がベストセラーにならないとおかしい、というかならないとやばいんですよね。つまり、多くの人が「やばさ」に気づいてないということで、それはそのまま私たちが『1984』の世界の中の人たちのようになってしまっている、ということだからです。彼らはB・Bや党のやってることを「おかしい」と思えないようになってしまっている。同じことがいまの日本で起きている、そういうことだからです。


前置きが長くなりましたが、なにかの参考になれば幸いです。








現実(事実)と虚構(想像)の混在−−−−Nineteen Eighty-Fourと『この世界の片隅に』から読み解く文学が持つ意義

 

関口竜平

 

 

 歴史は繰り返すとはよくいわれるものの、実のところ歴史は、「繰り返す」のではなく「繰り返されている」のではないか。歴史とは人々の意思や行動の積み重ねから成るものであり、ゆえに意識的に歴史を「繰り返させる」ことも可能である。そしてそれを容易に行なえるのがときの権力者であり、私たちは彼らの作り出す歴史のなかに生かされているだけなのかもしれない。

 ジョージ・オーウェル(George Orwell, 1903-50)Nineteen Eighty-Four(1949)は、私たちにそのことを強く意識させる。人々は言動のみならず内面まで監視され、過去が常に改変される世界に生きている。「過去をコントロールするものは未来をコントロールし、現在をコントロールするものは過去をコントロールする」(56)という党のスローガンからは、権力者によって繰り返される彼らにとっての都合のよい歴史、という印象を私たちに与える。そしてこのフィクションのなかで繰り返される歴史は、現実世界において繰り返されてきた歴史でもある。

 Nineteen Eighty-Fourは当時ソ連ファシストらによって現実に行なわれていたことをフィクションのなかで批判したが、それと似たようなことが現にいま繰り返されている。日本では、戦争法案と批判される法案が可決され、人々の内心の自由を侵害する可能性のある法案の提出も、本論を執筆しているいま取りざたされている。世界に目を向ければ、Post-truthという言葉が誕生するほどに、過去と現在がコントロールされ嘘と真実の見分けがつかない世界になりつつある。

 未来を私たちの意思で作るために、私たちができることはなんだろうか。それは、過去を私たち自身のものとして持ちつづけることである。それはあるいは、私たちのなかにあるおのおのの記憶を誰に侵されることもなく守りつづけることともいえる。過去の事実や記憶を汚されることなく持ちつづけることで、彼らに歴史を「繰り返させる」のではなく、私たち自身が歴史を「作り出す」こと、その力を取り戻すことが必要ではないか

 そのヒントをNineteen Eighty-Fourと、2016年に映画化され大ヒットしたこうの史代(1968-)の『この世界の片隅に(2009)(以下、『片隅に』)から探るのが本論の試みである。『片隅に』の詳細はのちの章で述べるが(Nineteen Eighty-Fourも同様)、どちらの作品も、「現実と虚構(想像)の混在」がテーマのひとつになっている。そしてこの混在は、過去あるいは記憶がもとになって生まれるものである。過去そして記憶を保持し守りつづけること(あるいはそれができないこと)によって、そこに描かれる未来はどのようなものになるのか、これから読み解いていく。そしてそれはフィクションの世界を飛び出し、私たちの現実世界へと繋がることになる

 1章ではNineteen Eighty-Fourを扱い、現実=事実が侵害されることによる現実と虚構(想像)の混在状態の崩壊と、その結果として失われる主人公ウィンストンの現在と未来という構図を考察する。2章では『片隅に』を扱い、すずの右手(=想像)が失われることによる現実と虚構(想像)の混在状態の崩壊と、過去=記憶を守りつづけることによってその崩壊状態から回復するという構図を考察する。最終章では現実と虚構(想像)の混在をテーマに、現実を守ることによって生み出される未来と、想像力によって生み出される共感その共感が紡ぐ過去と未来の繋がりについて述べる。歴史=過去=事実を知ることで「繰り返される」歴史から悲劇を生み出さないように、そして想像力=共感力によって未来を創造できるように、文学が果たすべき意義を宣言する。

 

1. Nineteen Eighty-Four−−−−現実=事実の侵害

 本章では、思想の自由の喪失や過去の改変作業などによって過去と現在が侵された世界を描くNineteen Eighty-Fourから、現実と虚構(想像)の混在が崩壊する様子をみていく。

 

1-1. 世界観

 まずは作品の世界観を簡単に説明しておく。主人公ウィンストンの住む国はオセアニアと呼ばれ、核戦争後に世界が3つの超大国に分かれたうちのひとつである。オセアニアはビッグ・ブラザー(以下、BB)が党首のBB党が一党独裁する国であり、厳格な監視社会となっている。階級は主に3つに分かれ、最上位の党中枢は俗にいう貴族階級であり、国を司る権力を握っている。その下に属するのが中産階級の党外郭で、テレスクリーンと呼ばれる監視装置と思考警察による常時監視状態の下で暮らしている。最下層に属するのはプロールと呼ばれる貧民層である。彼らは貧困と教養のなさを理由に党から反乱の危険性がないと判断されているため、基本的には党の監視による制約を受けない。思想統制の目的で上位2階級が使うよう奨励されている英語に代わる新言語(ニュースピーク)も彼らは使っておらず、英語のままである。

 基本的に内(=思想)も外(=言動)も自由は存在せず、党の決める正統から外れたものは思考警察によって捕らえられ、拷問ののちに改宗、そして存在自体の抹消が行われる。そしてその党の決定する正統はいつでも変更が可能であり、その根幹を支えているのが二重思考という思考体系と、その産物としての過去の改変である。二重思考とは、「ふたつの相矛盾する信念を心に同時に抱き、その両方を受け入れる能力」(328)であり、嘘を嘘と知りながらもそれを真実だと信じること、そして嘘をついているということを忘れ、さらにその忘却行為すらも忘れ、という無限循環的な行為である。そしてこの原理をもとに行なわれるのが過去の改変である。党は党にとって都合のよい現在を作り上げるため、常に過去を変更する。そしてその繰り返し(と二重思考による改変行為の忘却)によって、真に存在した過去というものがあるのかどうかすらわからなくなっている。

 そのような世界に生きるウィンストンは疑問を抱き、同じような思いを持つ女性ジュリアとともに反体制派となる。彼らの“革命”は順調に思えたが、仲間だと思っていたオブライエンが実は彼らを監視する存在であり、ふたりは思考警察に捕らえられてしまう。オブライエンら愛情省の人間によってウィンストンとジュリアは拷問を受け、BBの掲げるイングソックの原理(つまり二重思考や過去の改変)を信ずる者に改宗されてしまう。つまり、彼らは現実(事実)がいつでも変更可能な世界を受け入れてしまったのである。

 

1-2. ウィンストンの役割−−−−現実(事実)の守護

 過去を都合よく変更する党にウィンストンは抵抗する。彼は自分のなかにある記憶をもとに、真実つまり党によって手の加えられていない過去がどのようなものだったかを見つけ出す、あるいは保存しようとする。

 ウィンストンは皮肉にも党の公式見解をもとに記事の書き換えを行なう職に就いているが、彼はそこで過去の改変が行なわれている証拠を目にする。それはかつて反逆罪で処刑された人間のアリバイとなる記事で、党が記事の書き換えをし忘れていたために、現在の事実とは辻褄の合わない過去が存在してしまっていたのである。ウィンストンはそれをきっかけに党への疑問を持ち始め、「過去」に対する思いを強める。

 その過去のひとつが母(と妹)に関する記憶である。ウィンストンは母に関する夢をみることが多く、それをきっかけに過去についての回想をはじめる場面が多く描かれる。たとえば党が権力を握る前、核戦争が行なわれていた時代に、父に手を引かれ母と妹ともに地下深くへ避難する記憶をウィンストンは持っている(53)。また、ジュリアが隠し持ってきた本物のチョコレートをきっかけに何かの記憶が押し寄せてくる場面があるが、それはのちに母と妹に関するものであることがわかる。

 

しかしいつのことだったか、彼は彼女がくれたものに似たチョコレートを口にしたことがあった。最初にぷんと来た匂いを嗅いだとき、いつどこでのものかはっきりしないが、刺激される記憶があった。強烈でどこか不安を覚える記憶。(187)

 

チョコレートの最初の一口はすでにウィンストンの舌の上で溶けていた。おいしかった。しかし例の記憶がまだ意識の片隅で揺れ動いている。それは目の端で捉えた対象のように、何か強く感じられはするけれども、明確な形へとは収斂していかないもの。彼はそれを意識から追い出した。分かったのは、それが取り消したいけれどもできない何らかの過去の行動についての記憶だということだけだった。(188)

 

 その忘れたい記憶とは、配給されたチョコレートを妹のぶんまで食べてしまったこと、そして家に帰ると母も妹も消えていたことに関する記憶である(251-252)しかし、忘れたい記憶であるにもかかわらずウィンストンはしっかりと保持していることも確かである。のちの章で詳述するが、物語の終盤における重要な場面でも母と妹の記憶について描かれており、母(あるいは家族)に関する記憶が持つ意味は物語の鍵になっていることがわかる。

 母と妹に関する記憶以外でも、ウィンストンは過去に対する言及が多い。しかし家族に関するものと違って、しっかりと記憶を保持できているわけではない。物語の序盤、ウィンストンはかつてのロンドンを回想する。

 

彼は子供の頃の記憶を必死にたぐり寄せながら、ロンドンが昔からずっとこんな風であったのかを思い出そうとした。(中略)しかし無駄だった。どうしても思い出すことができない。眩いばかりの光に照らされた劇的な情景が次から次へと何の背景もなく、ほとんど脈絡もなく現れるだけで、子供時代の記憶は何ひとつ残っていなかった。(10-11)

 

かつてのロンドンである<第一エアストリップ>は、現在では街中のあらゆるものの名称が変更され、場合によっては名称を奪われ名無しになっているものもある。つまり過去が奪われており、ゆえにウィンストンの記憶も曖昧になってしまっているのだろう。

 ほかにも彼はプロール街の酒場で、プロールの老人に革命前の暮らしぶりをたずねる(136)しかし結果は散々なもので、老人はとりとめのない昔話を酔いに任せて語るだけだった。過去が常に改変され、加えて外界との接触も遮断された世界においては、人々は比較基準がないために現状の把握も難しく、ゆえに記憶として保存することもままならないのである。

 しかしそれでも(それゆえに)ウィンストンは過去の記憶を追い求める。プロール街にある古物店で彼は日記帳を買い、日記を書くという禁じられた行為をはじめたのだが、のちに彼はそこで古いガラスの文鎮を手にする。それは作られてから100年以上が経ったとされる代物で、ウィンストンは美しさを感じ購入する(146)。それは「現在とはまったく違う時代の産物であるという佇まいを備えて」(146)おり、「党員が私有物として持つには奇妙なものであり、危険なもの」(147)だった。なぜなら「古いものは何でも、いや、美しいものであれば何でもと言うべきだろうが、つねにどことなく胡散臭さが漂う」(147)と党が判断するからであり、このことは党が古いもの=過去に対する恐怖を抱いていることのあらわれといえるだろう。

 つまり過去(あるいはそれを思い起こさせる記憶)は、党の支配を脅かすものなのだ。党の公式見解と異なる過去の記憶を持つ人間が存在することは決して許されず、その記憶を生み出すような過去の代物も存在して欲しくないのである。党にとっての過去(=常に変更が可能で、現実に存在したかは問われない過去)と違い、ウィンストンは「現実として確かに存在した過去」すなわち事実(真実)を求め、またそれを守ろうとする。この物語は党とウィンストンの「過去」を巡るたたかいを描くものといえる

 

1-3. ウィンストンの敗北−−−−現実(事実)の否定

 そのたたかいは党の勝利で終わる。ウィンストンは自らの過去=記憶を否定し、党の過去を受け入れてしまうのだ。その象徴となる場面は物語の最終盤で描かれる。改宗ののち釈放されたウィンストンは、いつの日か行なわれるとされる処刑を待つ人々が集う<栗の木カフェ>にて、母と妹の記憶を回想する(459-461)。それは母と妹との別れからひと月ほど前の出来事であり、3人で双六のようなゲームをした記憶である。そのなかで彼ら3人は笑っており、「和解の瞬間」(460)であり、彼らは「幸せをたっぷり味わった」(461)のだ。しかしウィンストンは「その情景を頭から締め出した。それは偽りの記憶なのだ」(461)と、記憶を否定してしまう。そしてその代わりに、現実ではない妄想を受け入れてしまう。

 

勝利の知らせは魔法のように街を駆け巡った。テレスクリーンから流れてくるニュースから何とか聞き取ったところによると、現実に彼の夢想したような事態が生じているようだった。巨大な艦隊が密かに編成されて、敵の後方から奇襲を仕掛けたのだ。つまり白い矢印が黒い矢印の後方を切り裂いたのだ。(461-462)

 

その前にウィンストンはチェスをしながら、

 

彼は白のナイトをつまんで、盤上を移動させた。ここしかないだろう。黒い大群が全速力で南下しているところを、密かに集結した別の部隊がいきなりその背後に回り込み、陸路、海路による敵の補給線を断ち切ってしまう。こんな光景を強く念じれば、その別働隊を現実のものとすることができるような気がした。(451)

 

と、オセアニア軍の勝利を頭の中で作り上げていたのだが、その虚構が現実に起きたこととして彼には認識されることになる。

 オブライエンによる改宗の手ほどきを受けている際には否定していた「現実は党の精神のなかにのみ存在する」(385)という考えを、ウィンストンは最終的に体現することになる。このことが表しているのは、現実(事実)の否定であり、ゆえに虚構のみが存在する世界を容認することである。二重思考と過去の改変によって現実と虚構の区別がつかなくなり、最終的には虚構が支配するようになる世界において、ウィンストンは現実(=過去の記憶)を守ることでそれに対抗していた。つまり党の要求する思考様式を完全に受け入れてしまった人と違い、ウィンストンは現実と虚構が共存する世界を生きていたのだ。あるいは世界が虚構に侵食されるのを拒んでいたともいえる。しかし、客観的な事実に関する記憶(=ロンドンの街並など)のみならず主観的な事実に関する記憶(=母と妹)までをも失い、彼も虚構に満ちた世界を生きることになってしまう。これがNineteen Eighty-Fourの世界であり、結末である。

 

2. この世界の片隅に』−−−−記憶と想像力

 Nineteen Eighty-Fourと同様に、過去の記憶をテーマに現実と虚構の入り混じる世界を描いているのが『片隅に』である。過去(記憶)を否定し虚構に飲み込まれたウィンストン(と彼の住む世界)に対して、『片隅』では同様のテーマがどのように描かれるのか、そしてそこに生み出される異なる結末をみていく。

 

2-1. 世界観

 まずは『片隅に』の世界観を紹介する。主な舞台は太平洋戦争中の呉、そして広島である。大正14広島の江波、海苔の養殖を営む両親の間に生まれたすずは、19歳のときに呉の北条家へと嫁ぐ。夫の周作、義父母、周作の姉径子、径子の娘晴美との、戦時中でありながらも穏やかな暮らしがはじまる。しかし戦況が悪化するにつれ生活も苦しくなり、昭和206月には空襲後に残された時限爆弾によりすずは晴美(と自らの右手)を失う。そして8月には広島に原爆が投下され、終戦を迎える。

 『片隅に』は徹底的な時代考証を下敷きとしており、歴史的事実が頭に入っていれば特に世界観の紹介は不要であるほど、「現実に即した」作品である。よって作品そのものが現実(史実)と虚構(すずたち登場人物と彼らの物語)が混在したものともいえる。しかし本論で取り上げるのはそこではなく、すず(右手)の持つ想像力と記憶の器としてのすず、というテーマである。以降、物語のあらすじを織り込みながら上のテーマを考察する。

 

2-2. ばけもん

 すずは幼い頃、取引先に海苔を渡すおつかいの最中に、食糧を求めていた「ばけもん」さらわれる。周作も同様にさらわれており、そこでふたりは出会っている。しかしこの場面は現実に起きたことなのか、「よく人からぼうっとしていると言われる」(16, 上巻)すずの想像上の出来事なのかがはっきりしない。一方、周作とはじめて出会ったことはのちの周作のセリフ(138, 下巻)から現実のことだと断定できるうえ、「ばけもん」を退治するのに海苔を使ったため「のりが1枚足りなくて翌日父が大慌てでおわびに行ったのも確か」(16, 上巻)なのである。そして『片隅に』は基本的に「現実世界のものは太い枠線のコマで描かれ」ており、「対して、すずが想像したものや、夢うつつの状態で見たものは、細い枠線コマで描かれ」(143, 公式アートブック)というルールに則っており、「ばけもん」は前者のコマ内に登場している。このように、現実と想像の区別が曖昧なのがすずそして『片隅に』の特徴であり、この曖昧さが物語の最後まで一貫して描かれる。

 

2-3. 右手の役割

 作品内において現実と想像の境を曖昧にしているのが、絵を描くというすずの趣味である。たとえば妹すみのために兄要一を題材にした絵を描いたり(23, 上巻)、同級生の水原の代わりに海の絵(白波を飛び跳ねるうさぎに模したもの)を描いたり(45-49, 上巻)している。もちろん現実世界を描き写すこともある(たとえば広島に別れを告げるために街の風景を(102-104, 上巻)、あるいは晴美の兄久夫のために艦隊と海岸線を(5-6, 中巻)模写したりする)が、より重要なのは想像の世界を描くことにある

 すずにとって絵を描くという行為は、想像の世界への逃避という意味をある程度持っているように思える。そしてその絵を描いている右手には、作品の根幹ともいえる重要な役割が担わされている。しかしその右手は時限爆弾によって晴美とともに失われる。そして右手を失ったことをすずが自覚してからは、すべての背景が「まるで左手で描いた世界のように」(60, 下巻)歪んだものになる(実際にこうのは左手で背景を描いた)

 すずの右手の喪失は、彼女が想像の世界に逃げ込むことができなくなったことを意味する。つまり押し寄せてくるつらい現実(悪化する戦況、晴美の死、自身の右手の喪失など)から目を背け、あるいはその現実を想像に転化することができなくなる、ということである(幼少期に要一に怒られたあとに「鬼イチヤン」と題打った漫画を描いていたことは象徴的である)

 しかし物語の終盤、終戦を知らせる玉音放送を聴き怒りや悔しさがこみ上げ涙するすずの頭を、失われたはずの右手が撫でる描写がされる(96, 下巻)。以降、右手は様々な場面で登場し、すずの目に映る現実世界に想像の世界を付け加える。右手とともに失われたはずの想像の世界が復活するのだ。

 

2-4. 失われた想像力とその回復

 すずの右手は絵を描くためにあり、それが想像力を象徴することは理解できるだろう(もちろん現実世界を描くことも含まれるが、より重要なのは想像の世界を描くことである)。そしてその右手(=想像力)は一度失われるものの、なぜか復活するのである。その理由は、すずが「記憶の器」としての自分を自覚したことにある(126, 下巻)

 

生きとろうが死んどろうが もう会えん人が居って ものがあって うちしか持っとらんそれの記憶がある うちはその記憶の器として この世界に在り続けるしかないんですよね(126, 下巻)

 

というすずの決意は、過去の記憶つまり過去に起きたことを忘れずに守りつづけようという意志の表れである。

 これは過去の記憶を否定したウィンストンと対照的である。過去つまり現実世界を否定し虚構の世界に飲み込まれてしまったウィンストンと、想像(虚構)の世界を失うも過去の記憶という現実を保持することで想像力を取り戻したすず、という構図になる。換言すれば、現実を放棄し虚構に支配された世界を生きることになったウィンストンと、現実を受け入れ記憶として残すことで想像の世界を回復したすず、となる。つまりすずは、記憶の器となることで現実と想像が混在していた世界に戻ることができたのだ。

 そして現実と想像の混在を象徴する「ばけもん」は物語終盤で再登場する。それはかつて「ばけもん」から逃れたすずと周作が会話をし別れたのと同じ橋の上で、「この世界の片隅にうちを見つけてくれてありがとう 周作さん」「ほいで もう離れんで… ずっとそばに居って下さい」(140, 下巻)と、すずが周作に感謝と願いを伝える場面である。そしてすずは周作の服(あるいは右手)を掴もうとして、後ろを通りかかった「ばけもん」の服(と右手)を掴んでしまう。これは残されたすずの左手(現実=記憶の器)と、想像の産物である「ばけもん」の右手(想像)握手であり、両者がつながっていることを表しているのではないか。また、この場面の前に、戦死した兄要一が南国の島でワニをお嫁さんにし、生活をつづけるうちに毛むくじゃらの「ばけもん」となり、食糧を求めて旅に出る、という「鬼イチヤン冒険記」なるものが挿入されている(132,135,139, 下巻)。もちろんこの冒険記は“細い枠線のコマ”のなかに描かれている。現実と想像が繋がっていること、あるいは混在していることを強く印象付けるだろう。

 

2-5. 共感、そして未来をもたらす想像力

 過去を否定し処刑を待つのみとなったウィンストンと違い、記憶の器として過去を守ることを決意したすずには未来が開けている。それを象徴する場面が、最終回しあはせの手紙で描かれる。

 この回は、「突然失礼致します」と右手が登場し、その右手によって戦災孤児の回想が描かれる手法によって前半部分が進んでいく(141~, 下巻)。もちろんそのコマは“細い枠線”である。そして広島駅にたどり着いた戦災孤児はすずの落とした握り飯を拾う(このあたりから“太い枠線”になる)戦災孤児は落とし主のすずを見やり、その右手がないことに気づく。それは戦災孤児を原爆の爆風から守り右手を失った彼女の母親(そののちに死亡)の記憶を思い起こさせ(“細い枠線”の回想が挟まれる)戦災孤児は拾った握り飯をすずに返そうとする。握り飯を差し出されたすずも戦災孤児と晴美が重なったのだろうか、戦災孤児が拾った握り飯をそのまま食べさせる。そして戦災孤児は母親の記憶とすずを重ね合わせすずの右腕にすがりつき、晴美の記憶と戦災孤児を重ね合わせたであろうすずは彼女を引き取り呉に連れて帰る(146-149, 下巻)

 すずも戦災孤児も過去の記憶によって共感が引き起こされ、ともに歩む未来がもたらされている。一方Nineteen Eighty-Fourでは、ウィンストンとジュリアは釈放後に再会し会話もするが、改宗され過去を否定しお互いを裏切ったあとのふたりには、その先の未来は提示されない(452-457)この結末の違いは象徴的である。

 

3. 文学の意義

冒頭でも述べたように、歴史は繰り返すものではなく繰り返されているものである。そしてその繰り返される歴史を、自らの欲望のために悪用する権力者たちから守り、私たち自身の手によって歴史を作っていくために、文学の持つ意味を考えたい。

 

3-1なぜ歴史は「繰り返す」のか

歴史が繰り返される原因のひとつは過去の忘却である。過去に何が、誰によって、どのようにして起きたのかを忘れてしまえば、同じことが起きてしまう。そしてそれが起きたときには、それが繰り返されていることに気づくことはない。これは私たち自身の心がけの問題である。過去を忘れないよう意識し、実行することは可能である。

もうひとつの原因は過去の改変、あるいは隠蔽である。これはときの権力者によって常に行なわれてきたことである。彼らにとって都合の悪い事実(=歴史)は改変するか隠蔽するかして、都合のよい状態にしてしまえばいい。

よって私たちは、「歴史は繰り返す」と感じてしまうのだろう。そして実際に歴史(あるいは記録)は何者かの手が加えられたものなのだ。それはひとを介して行なわれる作業である以上不可避の現象である。同様に、記憶も個人のフィルターつまり主観を通したものであり、真に客観的なものにはならない。つまり私たちの生きる世界は、原理的に現実(真実、客観的事実)と虚構(想像、主観的事実)の混在する世界にならざるをえないといえるだろう。現実(真実、客観的事実)はたしかにそこに存在する(していた)が、それが歴史(記録)や記憶となる際には、虚構(想像、主観的事実)の混入は避けられないのである。

 

3-2. 「ゼイタクな」こと

 ならば私たちのすべきことは明白である。たとえあらゆるものが手を加えられているとしても、それらを否定し忘却することは、ウィンストンのような未来を招くことになるだろう。自らのうちにある過去の記憶を否定し忘却することは、その記憶(たとえそれが主観による色付けや記憶違いによって真実ではなくなっていたとしても)のもととなった過去の事実をも抹消することになる。つまりウィンストンは、客観的事実も主観的事実も手放し、党の作る事実のみを選択したのである。その結果、「過去が消され、その消去自体が忘れられ、嘘が真実となる」(116)世界を彼は受け入れてしまう。

 一方、ウィンストンとは対照的にすずは自らの記憶−−−−たとえそれが負の感情を引き起こすものだとしても−−−−を否定せず、記憶の器であることを誓う。印象的な場面として、遊女リンとの秘密に関するものがある。リンはかつて周作の想い人であり、そのことをすずが知ったことを把握したうえで、「人が死んだら記憶も消えて無うなる 秘密は無かったことになる それはそれでゼイタクな事かも知れんよ」(135-136, 中巻)とリンはすずに告げる。そしてリンが空襲で死んだであろうことをすずが確認する回(「りんどうの秘密」)で、空襲で焼かれ倒壊したリンの勤め先の軒先で、すずは「ごめんなさい リンさんの事秘密じゃなくしてしもうた……………これはこれでゼイタクな気がするよ…(112, 下巻)と、リンを思いながら語りかける(すでに周作にリンと知人になったことを告げていた)。この回は基本的に遊女仲間のテルからもらった口紅によって描かれており(これは過去の回想や、すずが実際に見ていない世界を表している)引用のすずのセリフが挿入される場面では、口紅で描かれる背景とリン(すでに失われたもの、記憶のなかのもの)に実線で描かれるすず(現実)が寄り添う様子が描かれている。記憶を持ちつづけること、あるいは他者と共有することによってもたらされる「ゼイタク」を表しているといえるだろう。

 もちろんすずの持つ記憶は十分に主観的であり、脚色されていることも確かである。しかし純粋に客観的ではない記憶だとしてもそれを持ちつづけることは、戦災孤児との出会いに象徴されるように、他者への共感を生み、ゆえに未来を生み出すものとなる。

 そして真実(=客観的事実)をもとにした記憶・記録(=主観的事実)は、先だって述べたように過去の過ちを繰り返さない(あるいは繰り返させない)ために必要なものとなる。このことは、歴史的事実を背景に作られる文学作品という構図とも重なり、文学が持つ意義も示唆してくれる。つまり、現実をもとにして生み出される虚構=文学作品であり、文学作品を生み出しそれを後世に残していく試みは、過去を守り未来へと繋げることと同義である。そして過去の記録や記憶を素材に描かれるものから私たちは他者の視点を得ることができ、想像力と共感力が生み出されるのである。

 

3-3. 現実と虚構の混在

 そして私たち文学研究者もまた歴史の担い手であることを忘れてはならない。文学作品を解釈しそこに意味を与えるという行為は、すずが晴美やリンとの記憶に意味を持たせたのと同じことである。受け取ったものに自分なりの意味を持たせ、それを未来に残すという大切な使命を私たちは担っているのだろう。

 私たちの生きる世界に純粋に客観的なものは存在せず、あらゆる記憶と記録には主観が入り混じることになる。ゆえに100%ありのままの正しい歴史は存在しない(もしあるとするならば、それが起きた瞬間のみに存在するのだろう)というより正しい歴史も間違った歴史もなく、ただただ純粋に私たちが受け継いできた(そしてこれから受け継いでもらう)記憶と記録があるのみである。しかしだからといって、それを「真実ではない」と否定してはならない。そこには未来を生み出す想像力と共感力の源が隠されているし、過去の過ちを繰り返さないためにも必要だからだ。だからこそ私たちは、たとえ日記帳の片隅にだろうとそこに何かを残していく必要がある。その小さいながらも延々とつづく積み重ねが、歴史を構成するのである。そしてその歴史はいつか「歴史」として未来の人々によって知られ、彼らなりの意味を持たされるものになるのだろう。こうして過去と未来は繋がるのであり、現実と虚構が混在する文学作品は、同様に現実と虚構が混在する私たちの現実に、想像力と共感力をもたらしてくれるのである。現実も、そして虚構も手放してはならないのだ。

 

 

引用文献

ジョージ・オーウェル高橋和久訳、『一九八四年』、早川書房2009年。

こうの史代、『この世界の片隅に』上中下巻、双葉社2008-2009年。

このマンガがすごい!』編集部編、『「この世界の片隅に」公式アートブック』、宝島社、2016年。

 

参考文献

この世界の片隅に」製作委員会編、『この世界の片隅に劇場アニメ公式ガイドブック』、双葉社2016年。

明石陽介編、『ユリイカ 詩と批評 201611月号 特集:こうの史代』、青土社2016年。