「こちら側」と「あちら側」

本が届かないのではなく、本「に」届かない人がいる。

ということをTwitterで書きました。そのことについてまとまらないなりに少し書いておこうと思います。

 

 

先日からスタートさせた「誰でも本屋_おんなのこ」で僕が軸本にした、高橋しん最終兵器彼女』を改めて読み直し、さらに同氏の『雪にツバサ』も読み直しました。

ざっくり言えば、前者は「主人公の女の子(17歳)が最終兵器に改造され終わりゆく世界の中で戦う」物語であり、後者は「母子家庭育ちの男の子(15歳)と喋ることのできない女の子(17歳)」の物語です。

 

後者『雪にツバサ』をもう少し具体的に説明します。

舞台は雪国のど田舎。古い温泉街で、違法風俗店が存在し(しかもそれが産業を支えてもいる)、ヤクザと警察が手を握り合っているおかげで平和が維持されているようなところ。

ツバサはほんのちょっとした超能力が使える男の子で、雪が不良グループにレイプされているところに遭遇。なぜか雪の「声」(つまり雪の思考)が読み取れてしまいます。そういう始まり。

思い切りネタバレしますが、雪は幼少期からの性被害(しかも父親からの)によって声を失っています(悲しいこと怖いことがあるとその記憶も消えます)。そしてそのことに気づいた祖父に引き取られます。ただ、残念ながら逃げた先の街も前述の通り危険な街なのですが。

 

ここまで書いたところでこの作品に対して「後ろ向きな」嫌悪感を抱いた方も多いでしょうが、そのような人にこそここからを読んでいただきたいです。

 

この作品(そして『最終兵器彼女』を筆頭に作者の他の作品)に対する批判は多いようです。「弱い女の子がレイプされることに対する作者の性的嗜好」みたいなものが特に。

ですがその批判が正しいかどうかはここでは問題ではなく、僕がここで言いたいことは、

 

「作中で描かれた人たち(に近いような生活を送っている人たち)が確かに存在している(らしい)」

 

ということです。(かっこによる保留がある理由は後述します)

 

冒頭の「本に届かない人」を思い出してください。あえてここでは次のように言い換えて遠回りをしますが、よろしければついてきてください。

 

「こちら側にいる人」と「あちら側にいる人」

 

と言い換えます。

「本に届かない人」=「あちら側にいる人」というのを頭の片隅に入れてお読みください。

 

僕たちは「こちら側」の存在です。例えばまず本を読める。こうしてネットにもつながる。そして、

「自分よりも酷い(豊かな)生活を送っている人がいること」を「知っている」

 

「こちら側」とは、「知っている」(=知る権利を有している)ことです。対して「あちら側」とは、「知らない」(=知る権利を有さない)ことと言えるでしょう。

 

本に関わることに的を絞りましょう。僕たち「こちら側」の人間は、作品=フィクション(あるいはノンフィクション)の中で描かれることを通して「世界」を知ることができます。『雪にツバサ』でいえば、「親から性的虐待を受けている人がいること」をフィクションを通して知る、あるいは感じることになります。

これに対しての「リアリティがない(=大袈裟すぎる、過激)」などといった批判、そしてもちろん前述の批判(=作者の性的嗜好云々)は、少なくともこの文脈からは的外れとなります。肝要なのは「絶望的な環境が存在すること」が理解(想像)できるかどうかだからです。

 

しかし残念ながら、こんな殊勝なことを書いている僕ですら「こちら側」の人間であり、「あちら側」の人たちのことを正確に知っているわけではありません。より正確にいうならば、「本を通して描かれた彼/彼女らのことは知っている」ということであり、故に前述のかっこによる保留付きの文章、

 

「作中で描かれた人たち(に近いような生活を送っている人たち)が確かに存在している(らしい)」

 

になるのです。あくまでも僕(とこれを読んでいるあなた)は「こちら側」の人間なんです。「あちら側」の存在は基本的には忘れていて、ふとした時にその存在を思い知らされ(テレビとか本とかによって)、あるいは覚悟を持って自ら知りに行くことでしかその存在は僕(たち)の中には生まれてこない。

 

だから僕ら(こちら側の人間)は、本を読むことでしか「あちら側」を知り(想像し)得ないということ。これがひとまずの結論。

 

だけど大事なのはここから。「あちら側」の話。長いしわかりにくかったけど最後までついてきてください。

 

想像しやすいように世界に目を向けてみましょう。例えばシリア。文字通り生きるか死ぬかの毎日。文字で説明できるような世界ではない。そしてやはりここでも僕は「こちら側」の人間であり、その絶望的な状況を想像するしかできない、本を読んでも。

とにかく「絶望的な状況」に生きる人がいる(らしい)。そしてそういう人が実は日本にもたくさんいる(らしい)。例えば『雪にツバサ』で描かれたような「クソど田舎」に。

 

また遠回りをします。ユートピアディストピア。前者は「最高の世界」、後者は「絶対に住みたくない世界」と考えてくれればいいです。これは僕にとっての両者の定義、あるいは関係性についての見解ですが、ユートピアディストピアは表裏一体、またはどちらかがなくなればどちらかもなくなるといった共依存的な関係にあると考えています。

つまり、僕らがユートピアを想像し、それを目指すとき、そこには「現実のディストピア」が必ず存在しないとならないのです。具体的に言うならば、毎日毎日残業だらけでしかも安月給のクソみたいな現実があるからこそ、残業なし高給取り(むしろ不労所得万歳)のようなユートピアを想像するわけです(ユートピア実現のための努力に発展するかはともかく)。

整理すると、

 

ユートピア実現のためには

ディストピア(=クソみたいな現実)を認識する必要がある

 

わけですが

③それ(=クソ現実)をディストピア(=改善すべき世界)だと思う

ためには比較対象が必要になります。つまりユートピア。少なくとも、「今の世界よりも良い世界があること」を知る必要があります。

 

 

さて、果たして「あちら側」の人はそれを知ることができる環境にあるのだろうか。

というより、そもそも「自分のいる世界がディストピアである」ということを感じることができるのだろうか。

 

 

知らない、否、「知ることができない」というのは、非常に残酷なことだ。

知ることができなければ、ユートピア実現を目指して生きることができない。あるいはユートピアではなくても、少なくともディストピアではない世界を目指すことができない。

ユートピアを描けなければユートピアは実現しない。あるいはディストピアを認識できなければディストピアを脱することはできない。

そのためには自らの状況を知ることと、外の世界を知ることの両方が必要になる。

 

ユートピア/ディストピアの感じ方は相対的なもので、年収5億の人間だってそれをディストピアと感じてより一層の高みを目指すこともあるし、年収200万でもユートピアと感じる人もいる(ちなみに「こちら側」と「あちら側」も相対的なもので、僕らも「あちら側」になりうる、とても簡単に。例えば国家機密とか。気づいたら戦争が始まってるなんてことがあるかもしれない。『最終兵器彼女』の世界はまさにそれ)。

だけど、本物のディストピア、絶対的なディストピアにいる人、つまり「あちら側」の人間には、ユートピア/ディストピアという概念が存在しない。そこにあるのは彼/彼女の生きるその世界「そのもの」だけだ。そこに「あったらいいな」の想像の世界はない。そして残酷なことに、「これより酷い世界がある」という想像もできない。そこにあるのはただただ現実のみだ。改善の必要を感じ(られ)ないディストピアが。

 

知ること、それはすなわち抵抗する権利を得るということだ。

現実に抵抗し、幸せを得ようともがく権利を得る。

その権利を奪われている人が、確かにこの世界には存在している(らしい)。

 

 

本を読むことは、世界を知ることであり、ありうるかもしれない世界を想像することである。そこに書かれた(描かれた)ことが真実であろうとなかろうと、僕ら「こちら側」の人間は世界を知る、想像する。自分のいる世界より幸せな世界があることを知り、羨む。自分のいる世界の方がマシな世界だと知り、安心する。

『雪にツバサ』というフィクションを通して世界を知る。あるいは『夫のちんぽが入らない』や『シリアからの叫び』というノンフィクションを通して。

僕ら「こちら側」の人間(=本を読める人間)は、残酷な世界があることを知って何かをしたいと思う。そこに書かれる(描かれる)「あちら側」のことを思い、何かを考える。

 

 

知る権利を有しているということは、より良い世界を目指す権利(クソみたいな世界を脱する権利)をも有するということになる。

「あちら側」=「本に届かない」人というのは、その権利を奪われている人と言える。

ユートピア(=ありうるかもしれない想像の世界)を目指す権利、またはディストピア(=絶望的な現実)に抵抗する権利。

現実を認識することも、可能性の世界を想像することもできない。

 

 

抵抗のための「知」

ふざけんじゃねーよ、という叫びをあげるための「知」

自分は不幸だ、もっと幸せになりたい、ということを世界に対して表明するための「知」

 

 

 

なんなんだこの世界は

 

そう言える、そしてその思いをネットを通して世界に発信できる僕はやはり

「こちら側」の人間である。

 

そして僕がこのようなことを考え世界に発信していることを、「あちら側」の人間は知ることができない。