ビッグブラザーの支配する国、日本

去年の11月にトランプさんが大統領になり、post-truthalternative-factsといったワードが登場し、ついに『1984』の世界が現実になってしまったか...と思っていた。大丈夫かアメリカ、いや世界。このままでは戦争が起きてしまうんではないか。過去が改変され、客観的真実が踏みにじられ、憎悪と恐怖に支配される世界が、途轍もないスピードで迫ってきているように感じていた。

しかしそれは間違った認識だったらしい。トランプさんによってアメリカが『1984』的状況になるずっと前から、日本はすでに『1984』だったようなのだ。

 

1984』の世界を理解するためのキーワードは、

過去の改変

二重思考

のふたつである。

過去を改変する目的は至極単純明快なもので、それは「権力の維持」にほかならない。なぜ過去を改変することが権力維持に効果を発揮するのかというと、「正統を流動的にしておくこと」が永遠の権力をもたらすために必要だからである。

ひとが誰かの権力、つまり「他人が自分の上に立つこと」「他人の指示を受け入れること」を許容するには、そのひとに対する信頼だったり、信用だったりが必要になる。そしてその信頼や信用といったものは、そのひとの正しさや能力だったりが根拠になる。上司の指示に従うことができるかどうかは、その上司の「これまでの」言動や実績などを意識的にも無意識的にも考慮に入れている、といえばわかりやすいかと思う。上司を先生に代えてもいいだろう。あるいは親でもいいし、立場が下の人だって同じである。とにかく「他人のことを信頼し、その他人の言うことに従うこと」には、その他人の「これまで」が重要になる。そう、過去だ。

要するに、過去を自由に改変することができれば、権力の維持なんて簡単なのだ。逆にいえば、今までの権力保持者は、過去を改変しなかったから権力を奪われたのだ。過去の栄光は確かに彼の権力を保証するものだが、その栄光はいつ「汚点」になるかわからないからだ。

この世界には、「いつまでも評価が変わらないもの」は存在しない。例えば大学受験に失敗し浪人する、あるいは滑り止めの大学に渋々進学する、そういった「結果」に対してその時点では失敗という評価を下すことが多いが、数年後にも失敗だったと思っていることはそうそうない。いわゆる塞翁が馬というやつだ。個人的な人生経験だけではなく、社会的な決断に対する評価だって時代が変われば変化する。日清・日露戦争に日本は勝利した。きっとそのとき、国民は「正しい」ことだと評価しただろう。そしてそれゆえに太平洋戦争へと突き進んだのだろう。今となってはそのどれも決して正しい選択だったとは思われていない。一部の人はそうではないらしいが。

つまり、先ほどの言い換えになるが、過去の栄光は権力保持者の正統性を担保するものであると同時に、いつか権力者に対して「反旗を翻す」可能性も持っているのだ。その可能性に気づいた者は、過去を改変することこそ肝要だと知る。そしてそれを実行したのが『1984』の世界だった。そしてそれは残念ながら、現実に行われていることでもある。おそらく遥か彼方の昔から。

しかしこの過去の改変にはひとつ問題がある。それは「過去が改変されている」ということを知っていては、権力者の正統性は担保されないということである。その問題を解決するのが、二重思考だ。簡単にいえば二重思考とは、「矛盾することを、矛盾していると知りながらどちらも受け入れること」であり、「都合のいいときに都合のいい方を選択すること」である。

具体例を挙げてみよう。

Aさん(仮名)「素晴らしい教育方針だと聞いています」

Aさん(仮名)「教育方針には賛同していないし会ったこともない」

 

Iさん(仮名)「会ったことない」

Iさん(仮名)「過去に失礼なことをされたのでそれ以来会ってない」

 

現実はフィクションより奇なり。

日報問題もそうだが、二重思考と過去の改変の「独裁セット」が日本で炸裂していることはいうまでもないことだったかもしれない。

そして共謀罪である。さらには秘密保護法だったり、もうお腹いっぱいである。

 

どうしてこうなってしまったのだろうか。そのヒントはやはり「過去」にあった。歴史を知る、歴史を遺すということの重要性に改めて気付かされる。歴史は過去であり、歴史を消す、あるいは隠すことは過去の改変に必要なことである。国民はその手助けをしてはならない。歴史を学び、忘れずにいる必要がる。

ハイエクは『隷従への道』でなぜヒトラーが政権を掌握できたかをこう推察した。

 

いつまでたっても政策が推進も決定されもしない、薄鈍頓馬な民主主義政府にイライラが募った国民は、強いリーダーシップでもって即時決断し実行してくれる人間に飛びついてしまった(ざっくり要約・大胆な意訳)

 

Oh...トランプ エァ〜ンド アベ。

 

未曾有の読み方を間違えたり、「友人の友人がアルカイダ」という発言で辞職だったりなんなりと大騒ぎしていたあの頃が懐かしい。あの当時僕らは、というかこれまでずっと、そんなどうでもいいことはほっといて、もっと有意義なことを議論してくれよ、と思っていた。政治献金だとか脱税だとか、もうそんな話で国会議論を止めないでくれ。そう思っていた。今も思っている。その結果が今のこの現状なのだろう。

前述したが、「いつまでも評価の変わらないもの」は存在しないし、「誰にとっても正しい(有益な)選択」だって存在しないのだ。だからこそ民主主義は「歩みののろい」ものになるのだし、そうならないといけないのだ。簡単に「正しい」「有益だ」なんて判断できるものなんてひとつもないのだから。僕たちはいつまでも悩み続け、己の判断に怯え続ける必要がある。その姿勢こそが民主主義だ。「自分の選択や行為はきっと誰かを救うだろうが、必ず誰かを傷つけるものでもある」ということを忘れてはならない。しかし僕らはその辛抱ができない。「簡単・便利・迅速」に様々なものが手に入るようになった世の中において、幸せや平和、正しさなども「簡単・便利・迅速」に手に入るものだと思ってしまった。僕らは時間のかかること、面倒なこと、熟考を重ねる必要のあることを避けるようになってしまった。

 

それがもたらすものは「過去の繰り返し」である。いや、正確に言い直そう。「繰り返される過去」だ。過去を繰り返したい何者かによって、繰り返されていることを隠して、過去つまり歴史は「繰り返す」のだ。