「おばさん」の話

 小さい頃、数ヶ月に一回くらいの割合で訪ねてきて、家の前でちょっと世間話をして帰っていくおばさんがいた。玄関ベルの音が鳴り響き、そのおばさんがいることがわかると、親は僕に応対を任せる。おばさんはいつも、「大きくなったねー」とか「今日もサッカーの練習?えらいねー」などと、たまに会う親戚のようなことをいつも言った。そしてそこからほんの少し、僕に質問をしたり、あるいはおばさんの話があったり、ゴミ出しついでにお隣さんと最近の出来事を話し合うようなやり取りがあったのち、おばさんは冊子を取り出し、そこから一節を引用し、「りょうへいくんが幸せな人生を送れますように」と締めくくり、またお元気で、となる。

 おばさんがとある宗教団体の会員で、いつもその団体の勧誘用冊子を渡しにきているということがわかったのはもう少し僕が大人になってからのこと。たぶん中学生とか、そのあたり。結局、大学院生になり実家を出るまでの間、つまり大学を卒業するまでの15~20年の間、僕は定期的におばさんと玄関先で話をして、冊子をもらって、ちょっと興味がある内容だったら読んでみる、ということを繰り返していたことになる。おばさんが世間的には「ちょっと危ない宗教団体」と思われているところに所属していることがわかってからも、僕はそれまで通りチャイムが鳴れば外に出て行った。むしろ、その事実を知ってからの方がより積極的に、「親ではなく僕が行くほうがいい」と思っていた。

 僕にとってそのおばさんは、「ちょっと危ない宗教団体」のおばさんではなく、「たまに世間話をしにくる」おばさんであり、たまに会う親戚に、親とは違って無条件に褒められる嬉しさに似た何かを感じることもあったし、僕の話を嬉しそうに聴いているおばさんを見て幸せを感じることもあった。「もう大学生なんですねー、なんだか感激」というようなことを言われた時は、こちらも少し感動したような記憶もある。

 

 結局、僕は信者にはならなかったし、今もなっていない。小さい頃から今に至るまで、宗教のことがわからなかったときも理解したあとも、僕は入信するつもりなどなかった。そしてそのことはおばさんも理解していたように思える。彼女は一度も僕を誘わなかった。ただただ冊子を渡し、その中の一番伝えたい文言だけを引用し、もし良かったら読んでみてね、と言うだけだった。

 高校生から大学生のあたりは、彼女の来訪頻度が極端に減った。日中に僕がいないことが増えただけかもしれないが、家に冊子が置いてあることも少なかったからたぶんそうなんだと思う。おそらく彼女が、僕のことを慮ってあまり来なくなったのかもしれない。年頃の少年になってしまったから。周りの目を気にするだろうから、と。でも僕はもうそのときにはそんなことは気にしなくなっていたし、むしろ久しぶりに会えたときは前述のようにちょっと嬉しかったことも覚えている。

 

 とにかく、今も昔も、僕にとって彼女は「ふつう」の人だ。それはきっととても幸せなことで、多くの偶然が重なった結果なんだとは思う。例えば僕の親が宗教に対して否定的でも肯定的でもなかったこと。おそらく親の中では、「ちょっと面倒だな、息子に相手させておけばいいか」くらいのことだったんだと思う。でもその判断をできるくらいには、おばさんの方も僕の親に信頼されていたんだとも思う。無理やり勧誘する人ではない、と。親の価値基準、そして本当に「いいひと」だったおばさん、そしてそのおばさんと出会ったときの僕がいい意味で無知だったこと、そういった偶然の産物によって、三者にとって幸せな関係が築けたのだと思う。親は「面倒事がなくなった」と思い、おばさんは話を聴いてくれる人が見つかり、僕も無条件に褒められたり少し背伸びして大人の世界に入っている気持ちになれることが嬉しかったのだろう。

 

 「ふつう」というのは、恐ろしいほどに無意識に刷り込まれている、良くも悪くも。気づいたときには、自分の中に「自分にとってのふつう」が生まれていて、ゆえにその「ふつう」が誰かにとっては「ふつう」ではないということに気づかない。あるいは気づいたときに、僕らはそれに対して違和感を覚え、ときに拒絶し、ときに攻撃することすらある。「ふつう」はあまりにも無意識に、あるいは無自覚に形成されるため、僕らは「自分にとって」「ふつう」ではないものを見たときに、恐怖を覚えると同時にそれを悪だと認識してしまう。「自分が正しくて、それは間違っている」という判断を、一切の躊躇もなくできてしまう。

 だけどちょっと考えてみれば、「ふつう」(あるいは「正しさ」や「善」といったものであり、その対義語)というのは、簡単に決められるものではないことはすぐにわかる。例えば僕らは納豆をご飯にかけて食べることに違和感を覚えないが、味噌汁に入れることに対してはどうだろうか。僕は最初ダメだった。父がやっていたが、まじかよーって母と一緒にいつも言っていた。でも試しにやってみたことがあって、それからは容認派になった。おいしかったから。そしてもっと視野を広げてみると、そもそも大豆を腐らせるという行為自体、意味のわからないことだと気づく。なんで腐らせるねん。そう思っている人は、外国人のみならず日本人にもいるだろう。僕らは「納豆」というものを無意識にそして無自覚に受け入れているから、あの意味のわからない匂いのするものを美味しいと言って食べているだけであって、決して「納豆を食べること(あるいはそれをご飯にかけて食べること)」が「ふつう」のことなのではない。しかしそのふたつを混同してしまうことは往往にしてあり、しかもその混同に気づいていないことがほとんどである。そしてその混同に気づいていないが故に、僕らは「ふつうではないもの」に対して攻撃を仕掛けてしまうのだ。自らを「正義」と勘違いして。

 

 なぜこのようなことが起きるのか。端的に言えばそれは無知の為せる業である。いわば、無知ゆえの無敵だ。納豆とご飯の組み合わせしか知らない人は、自らの正統性を疑うことはないのだ。だってそれしか知らないのだから。ほかに選択肢がなければ、正解も間違いも正統も異端もふつうも変もない。だけどほかの選択肢を知ったとき、僕らは「正解はどれ?」という迷いを持つことになる。味噌汁もありなの?パスタもうまいの?っていうかそもそも大豆腐らせることがおかしいって?まじか!!こんなふうに僕らは頭を悩ますことになる。マークシート式のテストで、選択肢が2つのときと4つのときでは悩む度合いが違うし、それが10も100もあったときには選ぶことなんてできない。少なくとも解答に自信を持つことは難しくなる。それと同じで、物事を知れば知るほど、「自分は絶対に正しい」と断言する勇気は失われていくはずである。

 

 つまりひとが何かを「ふつう」ではないと判断しそれを悪とみなすとき、そこには以下のようなメカニズムが存在すると考えられる。

1. 単にその選択肢を知らない

2. たとえ複数の選択肢を知っていても、「ふつう」は無意識(無自覚)に形成されるため「自分が間違っているかもしれない」という思考は生まれにくい

3. このふたつが組み合わさり、「無知」と「無知ゆえの絶対的自信から生じる『他者を理解しようという努力』の放棄」のサイクルが発生し、その強度を増していく

 

 知っているか知らないかというのはとても大きな影響力を持つ要素だ。星野源が好きな友人がいれば迂闊に「星野源なんか嫌い」とは言えないし、逆に「星野源が苦手」という人の前で「星野源最高!なんで聴かないの?」とは言えない。「星野源大嫌い」(「星野源聴かないのはバカ」)とためらうことなく言えるのは、そういう価値観を持っている人を知らないからであり、その状況を例えるならば、スマブラのハンマーを振り回し続けているあの無敵状態である。大丈夫?ハンマー当たんない?振ってもいいかな?ここなら振っても当たんないよね?当たっても痛くないよね?という気遣いは、そこにはない。

 そして厄介なことに、僕らはハンマーを振り回していることに無自覚なのだ。現にいまも僕は振り回しているに違いない。「振り回してはいけない」と言いながら、僕は特大のハンマーを振り回している。そして驚くほど多くの人を傷つけ、吹っ飛ばしている。

 

 だけど、傷つけることを恐れて何も言わないようになってはいけない。とても難しいことだと思う。そして、怖いことでもある。自分の意見を持ち、それを外に出すということは。それは言い換えれば、自分の「ふつう」を他者にぶつけることでもあり、それは凶器にもなりうるものだからだ。

 だけど、そのことを知りながらボールを投げるのと、知らずにボールを投げるのでは雲泥の差がある。前者はキャッチが可能であり、たとえ避けきれずに死球になっても、そこには「あえてぶつかる」という選択も存在しうる。しかし後者は、見てないところからの投球であり、避けることも「受け身」をとることもできずに怪我をさせる投球である。

 できれば僕はキャッチボールがしたいし、たとえ打ち返されてもそれをキャッチしてもう一回投げたいし、もしぶつけてしまっても「ごめんなさい一塁へどうぞ」となってほしい。怪我による病院送りも、乱闘による退場処分も嫌だ。

 だから僕らは、自分がボールを投げていること、あるいはバット(ハンマー)を振っていることを意識しながら、試合(人生)を続けなければいけない。

 

 ふつう、正義、常識、善、etc(あるいはその対義語)といったものに対し、僕らはあまりにも無防備に、そして不用意に自らの決断を委ねてしまう。「自分が正しい」「自分は間違っていない」と、絶対の自信を持って断言できてしまったとき、一度立ち止まれる臆病さを持ち続けたい。どれだけ頭が良くなろうと、偉くなろうと、年を重ねていこうとも、「自分は本当に正しいのか?」「それは本当に『ふつう』なのか?」と、常に問い続けていたい。自らにとっての「ふつう」を、「意識的」に自覚していたい。「ふつう」に対して「無意識」になったとき、僕らは「無自覚」に誰かを傷つける。

 

 

 

 僕はおばさんともう一度会って話がしたい。「もう働いてるの?すごいねー、がんばってくださいね」と言ってもらいたい。そして今度は、「おばさんもどうかお幸せに」と言って家の中に戻りたい。僕はもうあなたの世間的立場も、そのあなたの信仰する神のことも知っている。だけど僕はそんなこととは関係なしに、あなたに僕の近況を話し、褒められ、あなたが聖書から一節引用し朗読する声を聴き、「神のご加護がありますように」と、僕が信者ではないにもかかわらず願ってくれるあなたに、今まで通りただただ世間話をするだけの僕でありたい。僕にとって、あなたはあまりにも「ふつう」の人だから。そして僕の「ふつう」を、こんなにも素敵なものにしてくれたのは、あなたがあなたの「ふつう」を僕にぶつけなかったからだと、いま思っているから。僕は信者ではないけど、僕の中にはあなたとの関わりの中で生まれた何かが多く存在している。僕のことを好いてくれる人がいるのなら、その理由の一部はあなたにある。ありがとう、どうかお元気で。僕は僕にとっての天国であなたに、あなたはあなたにとっての天国で僕に、きっと会えるでしょう。そのときまで、どうかお幸せに。