下準備

風邪をひきました。39度近くまで出たのでインフルを疑いましたがただの風邪でした。

とりあえず一安心ですが、提出課題が終わっていない状態に変わりはなく、むしろ風邪をひいたことで時間がなくなったというか。インフルになって少し猶予をもらった方がいいような気もしてしまいました。よくないですね。

ということで、課題の下準備も兼ねてちょっとした思考実験をしてみようかなと思います。風邪治りかけのふんわりとした頭で行なうので、その辺はなんかちょうど良い言い訳になってくれればと思います。あと、僕はまだ現実や実態を「肌で」知っているわけではないし、詳しい仕組みがどうなっているのかも知らないので、その辺りの細かい指摘はもちろんありがたく受け取りますが、怒られても困ります。笑

 

議題:果たして取次は必要なのか

 

入社前から何を言っておるのかという感じですが、とにかくそこから考えていかないといけないと思っていますし、なんなら取次志望の理由の一つは「取次が癌だと思ったから」でもあるので、ここは避けて通れない問題かなと。

とりあえず僕の立場を明確にしておきますと、

「取次=摘出手術をすると大量出血で即死する位置にできてしまった悪性の癌」

という認識でいます。

このまま何もしないでいれば癌が原因で死ぬけども、取り除いたら即死してしまう。だから特効薬というか、既存のシステムや秩序なんてものにとらわれない何かを見つけ出さないといけないと思っています。そして大事なことは、出版業界という身体を救うにはどうすればいいかということであって、取次という一器官のためではない、ということです。これは取次を書店や版元と入れ替えてもいいのですが、この「全体を救う」という視点が欠けていてはその場凌ぎにしかならないし、結局自分(=出版業界)の首をしめることになると思います。一例を出せば、取次が取次のために行なっている返品率ダウンの施策ですか?これ、取次以外誰も(読者でさえも)得してないし、結局取次もその煽りを受けているようにしか僕には見えないんですよね。笑

 

とにかく、取次がない世界を想像してみようと思います。現状の問題点も取り上げながら。

 

まず、取次がないということは全てのやり取りがいわゆる直取引になるということです。取次の存在理由は主にここにあるというか、書店と版元のやり取りを簡潔にすることが一番の役割だと思っています。もっと根源的に言い換えれば、書店と版元のサポートであり、彼らが最も効率よく、あるいは効果的に仕事ができるようにお手伝いをする、というのが取次の本分ではないか、ということです。その点では、取次がなくなるのは大変なことだとは思います。もちろんまだまだ足りない部分だらけだと思いますし、むしろ逆効果になるようなことをしていることも多々あるように思えますが。

そこであえて、取次をなくしたらどうなるかです。まず取次任せにしていた店舗は成り立たなくなるということ。何を任せていたか、にもよると思いますが、まず配本を任せきっていたところは無理でしょうね。当たり前ですが。逆に言えば、生き残るところは「取次に任せる部分もありながら、書店主導の仕入れもしていた」店舗になるかと。ちなみにいま、誠光社さんのような直取引しかやってないところは考えていませんが、簡単に言えばそういうやり方に移行できる店舗が生き残るということでしょうか。つまり、99%圧縮して換言すれば、「能力」の有無なんですよね。

でもこの能力は決して天賦の才ではなく、日々の積み重ねでしか手に入れられないものだと思います。毎日、本を見て、お客さんを見て、データを見て、世の中を見て、培われるものではないでしょうか。ですが、この毎日の積み重ねができないほどに書店現場が多忙であることも確かで、能力が育たないことを書店員のみのせいにするのは酷です。というか、その要因の一つは取次や版元だとも思っているので、それはないだろうという心境です。

とにかく、自分の力で本を選べる(あるいは返品する)書店員がいれば、直取引は可能だということです。そしてその育成には時間と経験が必要で、現状のような「多忙すぎる」書店環境では難しいかな、ということです。あと低賃金なのもそうですかね。

そしてここで問題になってくるのが、送品(返品)コストです。一括大量輸送っていうんですかね、そういうやり方でコストを抑えていたからこそ成り立っていた業界でもあるし、ゆえに取次が重宝されていたと思います。さらに最近では運送業界自体がパンク寸前ですし、「小口で頻繁に」というやり方は全く合理性がないとも言えます。直取引になって、店舗ごとあるいは版元ごとの「完全一対一」方式になると、そこがうまくいかなくなるように思えます。

 

ですが、ここでやっぱり取次は必要だよね、という結論にしてしまっては面白くないので、なんとかして取次をなくしてしまおうと思います。笑

正確にいうと、「既存のやり方での」取次ということになりますが。

 

ここでも99%圧縮して言い表しますが、「モノを動かす取次」は終わりということです。「本という物理的な存在をトラックに載せて、モノをモノとして実際に動かす」というやり方を続けていては、もうこの業界は立ち行かなくなる分岐点に来てしまったというのが僕の直感です。

 

今日はここまでにします。全く前に進んでいないような気がしますが。風邪がぶり返して明日のラスト勤務にいけなくなるのだけは嫌なので。

 

 

 

ビッグブラザーの支配する国、日本

去年の11月にトランプさんが大統領になり、post-truthalternative-factsといったワードが登場し、ついに『1984』の世界が現実になってしまったか...と思っていた。大丈夫かアメリカ、いや世界。このままでは戦争が起きてしまうんではないか。過去が改変され、客観的真実が踏みにじられ、憎悪と恐怖に支配される世界が、途轍もないスピードで迫ってきているように感じていた。

しかしそれは間違った認識だったらしい。トランプさんによってアメリカが『1984』的状況になるずっと前から、日本はすでに『1984』だったようなのだ。

 

1984』の世界を理解するためのキーワードは、

過去の改変

二重思考

のふたつである。

過去を改変する目的は至極単純明快なもので、それは「権力の維持」にほかならない。なぜ過去を改変することが権力維持に効果を発揮するのかというと、「正統を流動的にしておくこと」が永遠の権力をもたらすために必要だからである。

ひとが誰かの権力、つまり「他人が自分の上に立つこと」「他人の指示を受け入れること」を許容するには、そのひとに対する信頼だったり、信用だったりが必要になる。そしてその信頼や信用といったものは、そのひとの正しさや能力だったりが根拠になる。上司の指示に従うことができるかどうかは、その上司の「これまでの」言動や実績などを意識的にも無意識的にも考慮に入れている、といえばわかりやすいかと思う。上司を先生に代えてもいいだろう。あるいは親でもいいし、立場が下の人だって同じである。とにかく「他人のことを信頼し、その他人の言うことに従うこと」には、その他人の「これまで」が重要になる。そう、過去だ。

要するに、過去を自由に改変することができれば、権力の維持なんて簡単なのだ。逆にいえば、今までの権力保持者は、過去を改変しなかったから権力を奪われたのだ。過去の栄光は確かに彼の権力を保証するものだが、その栄光はいつ「汚点」になるかわからないからだ。

この世界には、「いつまでも評価が変わらないもの」は存在しない。例えば大学受験に失敗し浪人する、あるいは滑り止めの大学に渋々進学する、そういった「結果」に対してその時点では失敗という評価を下すことが多いが、数年後にも失敗だったと思っていることはそうそうない。いわゆる塞翁が馬というやつだ。個人的な人生経験だけではなく、社会的な決断に対する評価だって時代が変われば変化する。日清・日露戦争に日本は勝利した。きっとそのとき、国民は「正しい」ことだと評価しただろう。そしてそれゆえに太平洋戦争へと突き進んだのだろう。今となってはそのどれも決して正しい選択だったとは思われていない。一部の人はそうではないらしいが。

つまり、先ほどの言い換えになるが、過去の栄光は権力保持者の正統性を担保するものであると同時に、いつか権力者に対して「反旗を翻す」可能性も持っているのだ。その可能性に気づいた者は、過去を改変することこそ肝要だと知る。そしてそれを実行したのが『1984』の世界だった。そしてそれは残念ながら、現実に行われていることでもある。おそらく遥か彼方の昔から。

しかしこの過去の改変にはひとつ問題がある。それは「過去が改変されている」ということを知っていては、権力者の正統性は担保されないということである。その問題を解決するのが、二重思考だ。簡単にいえば二重思考とは、「矛盾することを、矛盾していると知りながらどちらも受け入れること」であり、「都合のいいときに都合のいい方を選択すること」である。

具体例を挙げてみよう。

Aさん(仮名)「素晴らしい教育方針だと聞いています」

Aさん(仮名)「教育方針には賛同していないし会ったこともない」

 

Iさん(仮名)「会ったことない」

Iさん(仮名)「過去に失礼なことをされたのでそれ以来会ってない」

 

現実はフィクションより奇なり。

日報問題もそうだが、二重思考と過去の改変の「独裁セット」が日本で炸裂していることはいうまでもないことだったかもしれない。

そして共謀罪である。さらには秘密保護法だったり、もうお腹いっぱいである。

 

どうしてこうなってしまったのだろうか。そのヒントはやはり「過去」にあった。歴史を知る、歴史を遺すということの重要性に改めて気付かされる。歴史は過去であり、歴史を消す、あるいは隠すことは過去の改変に必要なことである。国民はその手助けをしてはならない。歴史を学び、忘れずにいる必要がる。

ハイエクは『隷従への道』でなぜヒトラーが政権を掌握できたかをこう推察した。

 

いつまでたっても政策が推進も決定されもしない、薄鈍頓馬な民主主義政府にイライラが募った国民は、強いリーダーシップでもって即時決断し実行してくれる人間に飛びついてしまった(ざっくり要約・大胆な意訳)

 

Oh...トランプ エァ〜ンド アベ。

 

未曾有の読み方を間違えたり、「友人の友人がアルカイダ」という発言で辞職だったりなんなりと大騒ぎしていたあの頃が懐かしい。あの当時僕らは、というかこれまでずっと、そんなどうでもいいことはほっといて、もっと有意義なことを議論してくれよ、と思っていた。政治献金だとか脱税だとか、もうそんな話で国会議論を止めないでくれ。そう思っていた。今も思っている。その結果が今のこの現状なのだろう。

前述したが、「いつまでも評価の変わらないもの」は存在しないし、「誰にとっても正しい(有益な)選択」だって存在しないのだ。だからこそ民主主義は「歩みののろい」ものになるのだし、そうならないといけないのだ。簡単に「正しい」「有益だ」なんて判断できるものなんてひとつもないのだから。僕たちはいつまでも悩み続け、己の判断に怯え続ける必要がある。その姿勢こそが民主主義だ。「自分の選択や行為はきっと誰かを救うだろうが、必ず誰かを傷つけるものでもある」ということを忘れてはならない。しかし僕らはその辛抱ができない。「簡単・便利・迅速」に様々なものが手に入るようになった世の中において、幸せや平和、正しさなども「簡単・便利・迅速」に手に入るものだと思ってしまった。僕らは時間のかかること、面倒なこと、熟考を重ねる必要のあることを避けるようになってしまった。

 

それがもたらすものは「過去の繰り返し」である。いや、正確に言い直そう。「繰り返される過去」だ。過去を繰り返したい何者かによって、繰り返されていることを隠して、過去つまり歴史は「繰り返す」のだ。

 

無知と馬鹿について

去年の7月にこんなことを書いていたらしいので

もう一度日の当たるところに出しておきます。


下記、過去の文章です。



権力者は馬鹿と無知を作りたがる。馬鹿と無知は自分たちが支配されていることに気づかないから。賢者のなかの、権力欲に塗れた者が独裁者になる。えてして権力者は賢く、それゆえに世界を支配し得る。

世界が危険な賢者に支配されているまたは支配されつつあると気づいた善良な賢者は声を上げる。しかし彼らはその時点では少数派である。先見の明を持った有能な人間であるが故に、彼らは少数派として大多数の馬鹿と無知に嘲笑される。そして支配者は彼らを排除する、大多数の馬鹿と無知を利用して。馬鹿と無知はここでも利用されていることを知らない。そして正義の味方になった気分になり、利用されているだけの日常に戻っていく。

人々は「常識」「世間」「普通」「みんな」に従う。安全だから。排除されないから。そこに支配者の目論見があることを知らずに。

支配者は賢い。人々が「みんな」に影響を受け、そういった空気に支配されることを知っている。だからその「みんな」と「空気」を作り出す。

様々な方法によって彼らは空気を作り出す。空気に乗るものは大多数の仲間入りを果たし、誰からも攻撃の的にされない安心の中で生活を送ることができる。空気に飲まれない者は孤立し、空気に乗った多数から攻撃される。

ここに、正しさという基準はない。

時に正しさという判断基準は人を傷つけもする。しかし正しさという基準すらない世界は権力者の支配を容易にする。そんな世界にある判断基準はただ1つ、「みんな」である。

そしてその「みんな」を作り出しているのは他ならぬ支配者である。このカラクリに気づかせないために、支配者はあらゆる手段を使って馬鹿と無知を養成する。

其の一、過去を隠す

其の一、事実を隠し、嘘を喧伝する

其の一、外部の情報を遮断する

何かと比較をすることができなければ、「いま」の状況を理解し判断することができない。そもそも情報がなければ思考することもできない。そういう状況を彼らは作ろうとしている。

孤立すること、一人になることを人は嫌う。そのことを彼らは知っている。ならば、僕らはいま、孤独になることを怖がってはいけない。

彼らはまた、僕らにこう思わせようともしている。

「自分一人が何かしたって、どうせ世界は変わらない」

ある当選者の獲得票数が数万票なのを見て、あるいは一位と二位の票数差が大きいのを見て、「結局自分が行かなくても変わらなかった」と思ってしまう。自分一人がここでゴミの分別をしようと、席を譲ろうと、赤信号を渡ろうと、誰かの悪口を言おうと、世界の進行には全く影響がない。と。

嬉しいことに、世界はその一人一人の行動の積み重ねで動いているらしい。いや、悲しいことに、といった方がいいかもしれない。見えにくいから気づかないだけで、意外と自分の行動が世界の大勢に影響を与えているらしい。それに気づくのはことが終わった後のことで、歴史の教科書にページが割かれてからなのだけど。

あの時、この積み重ねが戦争につながっていくと気づいていた者はほとんどいなかった。いてももみ消された。支配者に利用された大多数の馬鹿と無知に。戦争が始まってから、あるいは終わってから、あるいは終わって数十年が経ってから、人々はあの時の自分たちの「小さな」積み重ねの意味を知った。またはいまも気づいていない。誰もみな、あの時の牛乳一口がいまの健康に影響を与えているとは思えないように。

僕らはそれが大きなものになればなるほど、自分たちの与えられる影響なんてないと思ってしまう。関係なんてないと思ってしまう。選挙しかり、サークル運営しかり。

いまここで「戦争反対」または「戦争賛成」と訴えても効果はないように思ってしまう。そして支配者は、その「小さなこと」が世界を動かすことを知っている。だから少しずつ、見えないように、積み重ねていく。

馬鹿と無知はその積み重ねに、自分が加担していることに気づかない。そのくせ、「自分には影響力なんてない」と思っている。

気づく者もいる。しかし少数派になることを恐れ、声を上げることができない。

声を上げたものは、排除される。支配者と、馬鹿と無知によって。


歴史は繰り返す。なぜなら人は歴史から学ばないからだ。いや、学べないといった方がよいかもしれない。学ばせたくない人がいるから。そしてその人は、歴史を知っている。人々がいかに歴史を繰り返してきたか、という歴史を。支配者は賢いのだ。


こんなディストピアを迎えたくない。現になりつつあるけども。

僕らは知る必要がある。学ぶ必要がある。そして、孤独になる覚悟を持たなくてはいけない。

考えることは、孤立することでもある。他人と違う結論を導き出し、実行する怖さ。そして覚悟。

自分には世界に対する影響力がある、という覚悟。責任。そして自信。

お前には世界を動かす力がある。

ようこそ馬鹿と無知諸君、ディストピアへ。

君たちにはのびしろがある。いや、のびしろしかない。

そしてそのことは、世界にものびしろがあることを意味する。

きっとこの世界には希望が満ち溢れている。

僕たちには世界を動かす力がある。そのことを知っていて、僕たちを利用する権力者がいる。知らずに、利用される僕たちがいる。

大事なことは何度でも繰り返して言う。大事だから、「わざと」繰り返すのだ。


さて、僕らはまた歴史を「繰り返す」のだろうか。それとも気づかないうちに「繰り返させられる」のだろうか。

これまで人類が成し遂げてきた数々の偉業を、僕らは「意識的に」「繰り返す」必要がある。欲に塗れた権力者が、彼らにとっての大事なことを繰り返す前に。

きっとこの世界には希望が満ち溢れている。



以上です。


村上春樹にまつわる、知っていれば人生のスパイスになるといえば聞こえはいいが、実のところさして重要ではないお話

新刊が出るので僕にとっての村上春樹を記しておきます。

最初から最後まで「意味のない」話ですが。

 

村上春樹の作品は好きではある。すごい好き、というわけではない。

強いていうなら、好きと嫌いを半分に分けて好きを選び、その好きをさらに半分に分けた真ん中近辺誤差数センチ、といったところか。

具体的に言えば、『カフカ』『世界の終わり』『1Q84』『ノルウェイ』は読んだが、『ピンボール』や『多崎つくる』は読んでいない。『騎士団長殺し』もまだ読む予定はない。

 

つまり「なんとも言えない」というのが最も正確な表現であり、それは村上春樹の作品を読んだ後の感情と同一のものでもある。なんとも言えない、ということだけは言える、というやつだ。

この文章も村上春樹っぽい文体で書くことを意識してやっているが、その再現度は30点といったところか。なんとも言えない。

 

とにかく僕は彼と、確か中学1年の頃に出会ったと記憶している。父が「これ読んでみろ」と差し出してきたのが『カフカ』だった。父曰く、「アイロニーとメタファーだ」とのことだったが、おそらく父はよくわかっていなかったに違いない。なんだかとても自慢気だったが。

結局僕もよくわからなかった。何がアイロニーで何がメタファーなのか。でもストーリーは面白かったし、なんとなく、「好き(...なんだと思う)」と思った。ただ結末のもやっとした感じだけは心に残った。というか僕はそれが「いい」と思えるタイプの人間だったのだ、だから「好きの真ん中近辺誤差数センチ」にいる。

 

これから、村上春樹の何が僕の心の琴線に触れたのかを少し掘り下げて考えてみることにする。それはきっととても大事なことになるに違いない。あるいは完全に無駄になるだろう。

 

改めて思うことは、村上春樹の作品の世界観はいわゆる「ライトノベル」に近いということである(少なくとも僕が読んだ作品は)。ふたつの世界が同時進行し、あるいは登場人物が行ったり来たりする、というようなファンタジー要素。そしてその混線する世界線において展開される男女のあれこれ。

しかしどこまでいっても物語の雰囲気は曇り空のままだ。『1Q84』なんて、『高速道路から降りたら月が2つある異世界に飛ばされてしまったキミと僕の(以下略)』というタイトルをつけられて背表紙のタイトル文字が緑や青のあの文庫になっていてもおかしくない設定とストーリーであるにもかかわらず、である。

異世界的な設定と恋、そして頻繁に繰り返されるセックス。同じ設定でラノベが何本も書けるだろう。しかし村上春樹の手にかかれば全て曇り空になる。

とにかく僕の脳内では、いつも空は曇っている。たとえ本文に「いつの間にか眠っていたらしい。なんだかとても大切な夢を見ていたような気がするが、とにかくいま僕の中にあるのははやく彼女を探しに行かなければという感情だけだった。だから僕はトーストと目玉焼きを手早く作り、新聞の天気欄を読みながらそれらを食べた。まるでいま僕の胃の中に落ちていった目玉焼きのような天気図が、晴れということを伝えていた」とあったとしても、僕の脳内イメージはどんよりとした曇り空である。きっと、その本文の後ろには、「しかし実際には僕の部屋のカーテンは閉まっており、その僅かな隙間から漏れ入る光だけでは正確な天気はわからなかった。しかも新聞はおとといのもので、まるで彼女のように気まぐれないまの季節の天気では、予報などなんの意味もない」という文章が、フリクションボールペンで書かれているに違いない。冷やせば出てくる、きっと。

 

とにかく万事そういった調子で物語は進み、さらに追い討ちをかけるように「ハッピーエンドともバッドエンドとも言えない結末」を提示されることになる。

いや、バッドではないけどハッピーか...?んー。なー。となる。それはまるで軽口を叩き合えるほどの仲ではないクラスメイトの女の子(大人しめ)に告白され、返事を渋っているうちに彼女の親友(強気)に呼び出され、3人揃った状態で親友に「好きなの?嫌いなの?はっきりして」と問われたときのラノベの主人公が感じる戸惑いと同じかもしれない。「いや、嫌いじゃないけど好きっていったらじゃあ付き合えばいいじゃんって言われるし、でもそれほどは好きじゃないんだけど嫌いって言ったら怒るよね、親友。っていうか彼女泣きそうなんだけどえー嫌いって言えないよこれ、えー」

 

つまり非常にモヤモヤするのである。

 

しかもさらにタチの悪いことに、「なんかわかったような気になる」程度には物語の筋が理解できてしまうのだ。例えばピンチョン作品や夢野久作ドグラ・マグラ』のように、「誰だよこの面作ったやつ!クリアできるわけねーじゃんなんでスタートと同時に地面からトゲトゲの花出てくるんだよバカかよ」という超難易度高めのものではない。具体的に言語化するならば、ある程度の強敵が常に頻繁に出てくるのになぜか倒せてしまっていて、さらに「あれ?いま俺呪文唱えた?唱えてないよね?なんで敵消えたの?え?倒したの?まじ?」となりながら進んでいくような感じである。ちなみにラスボスは誰かが倒してて、しかもそれによって世界は平和にもさらなる混沌にもなっていない。

 

モヤモヤする。でもクリアはしている。

読み終えた達成感はあるが、どうもしっくりこない。

「え?なに?エディプスコンプレックス?ちょっと難しい!」とか思いながらも読み終えてしまった。でも空は晴れない。嵐も来ない。いつまでたっても曇っている。

 

たぶんこれはあれだ、あれである。

例えばテストで100点を目指して必死に頑張ったが結果は65点だった。でもクラス平均は45点だったから、決して悪いわけではない。むしろいい方である。というような感じか。

あんなに頑張ったのに、と思うと納得はいかないが。でもこの難しさなら仕方ないよな、とも思う。そんな感じ。え?でも頑張ったのにこれ?でもそんな悔しくないな...

すごい嬉しいわけでもなく、かと言ってすごい悔しいわけでもない。

だからモヤモヤする。

まるで現実の人生のようである。

 

つまり村上春樹がクセになる理由の一つは、設定とストーリーはどう考えても現実離れしているのにまるで現実の人生のようなモヤモヤを残す結末を作り出せるすごさ、である。

登場人物の性格やスペックも現実離れしている。僕だったら慌てふためいてあわあわしてしまうような状況下においても、彼らは落ち着いている。とにかく先ずはコーヒーを淹れて、スクランブルエッグを食べる。なんならテレビをつけてNHK国会中継を見るともなしに見るくらいの余裕まである。

そんな彼らが突拍子もない世界の中で動き回っているのに、やはり空は曇っている。

そして結末は躍動しない。

 

 

結局村上春樹の何が好きなのかはよくはわからなかった。というのが結末である。

でもゼロじゃない。その程度には理解できた。かもしれない。

そしてこのように、ああでもないこうでもないと持論を展開し、そのことに満足することこそが村上春樹を愛する者としてのあるべき姿だとも思っている。

そして、「村上春樹の作品はよくわからないんだけど、そこがいいんだよね、なんかクセになるんだよね」と言ってちょっと「なんか良さげ感」を出すのが、村上春樹を語る際に取るべき姿勢だとも思っている。

そして僕はそう言った意味においては、完璧な村上春樹ファンであり、「新作はすぐには読まずにほとぼりが冷めてから(むしろ文庫になってから)読んで、ふむふむ今回はそんな感じかなるほどね、って言いたい」僕は完全に村上春樹の世界に入り込んでしまっている。

 

いま空にはきっと月が2つあるに違いない。僕はなぜかそう確信している。

 

カーテンはしまっているけれど...

 

 

「おばさん」の話

 小さい頃、数ヶ月に一回くらいの割合で訪ねてきて、家の前でちょっと世間話をして帰っていくおばさんがいた。玄関ベルの音が鳴り響き、そのおばさんがいることがわかると、親は僕に応対を任せる。おばさんはいつも、「大きくなったねー」とか「今日もサッカーの練習?えらいねー」などと、たまに会う親戚のようなことをいつも言った。そしてそこからほんの少し、僕に質問をしたり、あるいはおばさんの話があったり、ゴミ出しついでにお隣さんと最近の出来事を話し合うようなやり取りがあったのち、おばさんは冊子を取り出し、そこから一節を引用し、「りょうへいくんが幸せな人生を送れますように」と締めくくり、またお元気で、となる。

 おばさんがとある宗教団体の会員で、いつもその団体の勧誘用冊子を渡しにきているということがわかったのはもう少し僕が大人になってからのこと。たぶん中学生とか、そのあたり。結局、大学院生になり実家を出るまでの間、つまり大学を卒業するまでの15~20年の間、僕は定期的におばさんと玄関先で話をして、冊子をもらって、ちょっと興味がある内容だったら読んでみる、ということを繰り返していたことになる。おばさんが世間的には「ちょっと危ない宗教団体」と思われているところに所属していることがわかってからも、僕はそれまで通りチャイムが鳴れば外に出て行った。むしろ、その事実を知ってからの方がより積極的に、「親ではなく僕が行くほうがいい」と思っていた。

 僕にとってそのおばさんは、「ちょっと危ない宗教団体」のおばさんではなく、「たまに世間話をしにくる」おばさんであり、たまに会う親戚に、親とは違って無条件に褒められる嬉しさに似た何かを感じることもあったし、僕の話を嬉しそうに聴いているおばさんを見て幸せを感じることもあった。「もう大学生なんですねー、なんだか感激」というようなことを言われた時は、こちらも少し感動したような記憶もある。

 

 結局、僕は信者にはならなかったし、今もなっていない。小さい頃から今に至るまで、宗教のことがわからなかったときも理解したあとも、僕は入信するつもりなどなかった。そしてそのことはおばさんも理解していたように思える。彼女は一度も僕を誘わなかった。ただただ冊子を渡し、その中の一番伝えたい文言だけを引用し、もし良かったら読んでみてね、と言うだけだった。

 高校生から大学生のあたりは、彼女の来訪頻度が極端に減った。日中に僕がいないことが増えただけかもしれないが、家に冊子が置いてあることも少なかったからたぶんそうなんだと思う。おそらく彼女が、僕のことを慮ってあまり来なくなったのかもしれない。年頃の少年になってしまったから。周りの目を気にするだろうから、と。でも僕はもうそのときにはそんなことは気にしなくなっていたし、むしろ久しぶりに会えたときは前述のようにちょっと嬉しかったことも覚えている。

 

 とにかく、今も昔も、僕にとって彼女は「ふつう」の人だ。それはきっととても幸せなことで、多くの偶然が重なった結果なんだとは思う。例えば僕の親が宗教に対して否定的でも肯定的でもなかったこと。おそらく親の中では、「ちょっと面倒だな、息子に相手させておけばいいか」くらいのことだったんだと思う。でもその判断をできるくらいには、おばさんの方も僕の親に信頼されていたんだとも思う。無理やり勧誘する人ではない、と。親の価値基準、そして本当に「いいひと」だったおばさん、そしてそのおばさんと出会ったときの僕がいい意味で無知だったこと、そういった偶然の産物によって、三者にとって幸せな関係が築けたのだと思う。親は「面倒事がなくなった」と思い、おばさんは話を聴いてくれる人が見つかり、僕も無条件に褒められたり少し背伸びして大人の世界に入っている気持ちになれることが嬉しかったのだろう。

 

 「ふつう」というのは、恐ろしいほどに無意識に刷り込まれている、良くも悪くも。気づいたときには、自分の中に「自分にとってのふつう」が生まれていて、ゆえにその「ふつう」が誰かにとっては「ふつう」ではないということに気づかない。あるいは気づいたときに、僕らはそれに対して違和感を覚え、ときに拒絶し、ときに攻撃することすらある。「ふつう」はあまりにも無意識に、あるいは無自覚に形成されるため、僕らは「自分にとって」「ふつう」ではないものを見たときに、恐怖を覚えると同時にそれを悪だと認識してしまう。「自分が正しくて、それは間違っている」という判断を、一切の躊躇もなくできてしまう。

 だけどちょっと考えてみれば、「ふつう」(あるいは「正しさ」や「善」といったものであり、その対義語)というのは、簡単に決められるものではないことはすぐにわかる。例えば僕らは納豆をご飯にかけて食べることに違和感を覚えないが、味噌汁に入れることに対してはどうだろうか。僕は最初ダメだった。父がやっていたが、まじかよーって母と一緒にいつも言っていた。でも試しにやってみたことがあって、それからは容認派になった。おいしかったから。そしてもっと視野を広げてみると、そもそも大豆を腐らせるという行為自体、意味のわからないことだと気づく。なんで腐らせるねん。そう思っている人は、外国人のみならず日本人にもいるだろう。僕らは「納豆」というものを無意識にそして無自覚に受け入れているから、あの意味のわからない匂いのするものを美味しいと言って食べているだけであって、決して「納豆を食べること(あるいはそれをご飯にかけて食べること)」が「ふつう」のことなのではない。しかしそのふたつを混同してしまうことは往往にしてあり、しかもその混同に気づいていないことがほとんどである。そしてその混同に気づいていないが故に、僕らは「ふつうではないもの」に対して攻撃を仕掛けてしまうのだ。自らを「正義」と勘違いして。

 

 なぜこのようなことが起きるのか。端的に言えばそれは無知の為せる業である。いわば、無知ゆえの無敵だ。納豆とご飯の組み合わせしか知らない人は、自らの正統性を疑うことはないのだ。だってそれしか知らないのだから。ほかに選択肢がなければ、正解も間違いも正統も異端もふつうも変もない。だけどほかの選択肢を知ったとき、僕らは「正解はどれ?」という迷いを持つことになる。味噌汁もありなの?パスタもうまいの?っていうかそもそも大豆腐らせることがおかしいって?まじか!!こんなふうに僕らは頭を悩ますことになる。マークシート式のテストで、選択肢が2つのときと4つのときでは悩む度合いが違うし、それが10も100もあったときには選ぶことなんてできない。少なくとも解答に自信を持つことは難しくなる。それと同じで、物事を知れば知るほど、「自分は絶対に正しい」と断言する勇気は失われていくはずである。

 

 つまりひとが何かを「ふつう」ではないと判断しそれを悪とみなすとき、そこには以下のようなメカニズムが存在すると考えられる。

1. 単にその選択肢を知らない

2. たとえ複数の選択肢を知っていても、「ふつう」は無意識(無自覚)に形成されるため「自分が間違っているかもしれない」という思考は生まれにくい

3. このふたつが組み合わさり、「無知」と「無知ゆえの絶対的自信から生じる『他者を理解しようという努力』の放棄」のサイクルが発生し、その強度を増していく

 

 知っているか知らないかというのはとても大きな影響力を持つ要素だ。星野源が好きな友人がいれば迂闊に「星野源なんか嫌い」とは言えないし、逆に「星野源が苦手」という人の前で「星野源最高!なんで聴かないの?」とは言えない。「星野源大嫌い」(「星野源聴かないのはバカ」)とためらうことなく言えるのは、そういう価値観を持っている人を知らないからであり、その状況を例えるならば、スマブラのハンマーを振り回し続けているあの無敵状態である。大丈夫?ハンマー当たんない?振ってもいいかな?ここなら振っても当たんないよね?当たっても痛くないよね?という気遣いは、そこにはない。

 そして厄介なことに、僕らはハンマーを振り回していることに無自覚なのだ。現にいまも僕は振り回しているに違いない。「振り回してはいけない」と言いながら、僕は特大のハンマーを振り回している。そして驚くほど多くの人を傷つけ、吹っ飛ばしている。

 

 だけど、傷つけることを恐れて何も言わないようになってはいけない。とても難しいことだと思う。そして、怖いことでもある。自分の意見を持ち、それを外に出すということは。それは言い換えれば、自分の「ふつう」を他者にぶつけることでもあり、それは凶器にもなりうるものだからだ。

 だけど、そのことを知りながらボールを投げるのと、知らずにボールを投げるのでは雲泥の差がある。前者はキャッチが可能であり、たとえ避けきれずに死球になっても、そこには「あえてぶつかる」という選択も存在しうる。しかし後者は、見てないところからの投球であり、避けることも「受け身」をとることもできずに怪我をさせる投球である。

 できれば僕はキャッチボールがしたいし、たとえ打ち返されてもそれをキャッチしてもう一回投げたいし、もしぶつけてしまっても「ごめんなさい一塁へどうぞ」となってほしい。怪我による病院送りも、乱闘による退場処分も嫌だ。

 だから僕らは、自分がボールを投げていること、あるいはバット(ハンマー)を振っていることを意識しながら、試合(人生)を続けなければいけない。

 

 ふつう、正義、常識、善、etc(あるいはその対義語)といったものに対し、僕らはあまりにも無防備に、そして不用意に自らの決断を委ねてしまう。「自分が正しい」「自分は間違っていない」と、絶対の自信を持って断言できてしまったとき、一度立ち止まれる臆病さを持ち続けたい。どれだけ頭が良くなろうと、偉くなろうと、年を重ねていこうとも、「自分は本当に正しいのか?」「それは本当に『ふつう』なのか?」と、常に問い続けていたい。自らにとっての「ふつう」を、「意識的」に自覚していたい。「ふつう」に対して「無意識」になったとき、僕らは「無自覚」に誰かを傷つける。

 

 

 

 僕はおばさんともう一度会って話がしたい。「もう働いてるの?すごいねー、がんばってくださいね」と言ってもらいたい。そして今度は、「おばさんもどうかお幸せに」と言って家の中に戻りたい。僕はもうあなたの世間的立場も、そのあなたの信仰する神のことも知っている。だけど僕はそんなこととは関係なしに、あなたに僕の近況を話し、褒められ、あなたが聖書から一節引用し朗読する声を聴き、「神のご加護がありますように」と、僕が信者ではないにもかかわらず願ってくれるあなたに、今まで通りただただ世間話をするだけの僕でありたい。僕にとって、あなたはあまりにも「ふつう」の人だから。そして僕の「ふつう」を、こんなにも素敵なものにしてくれたのは、あなたがあなたの「ふつう」を僕にぶつけなかったからだと、いま思っているから。僕は信者ではないけど、僕の中にはあなたとの関わりの中で生まれた何かが多く存在している。僕のことを好いてくれる人がいるのなら、その理由の一部はあなたにある。ありがとう、どうかお元気で。僕は僕にとっての天国であなたに、あなたはあなたにとっての天国で僕に、きっと会えるでしょう。そのときまで、どうかお幸せに。

 

 

人生をかけることの意味

「好きなことを仕事にするかしないか」問題は必ず誰しもが経験することだとは思いますが

個人的には前者の考えを持っている人はしあわせな人だと思っています

おそらくその人は、「人生をかけられるほど何かに必死に取り組んだ」経験がある人なのではないでしょうか

あるいは、人生をかけるほどではなくとも、「熱中できるもの」くらいでも十分かもしれません

とにかく、(そのものが好きか嫌いかにかかわらず)死ぬほど楽しんだあるいは苦しんだ経験のある人は、「好きなことを仕事にすること」に対する恐怖心はないように思えます

というより、好きなことでなければ仕事=人生をかけるものにはできない、というか。

 

話は少し逸れますが、「頑張り方」を知っているということはとてもしあわせなことです

簡単に言えば成功体験でしょうか

 

それを得る方法のひとつが、「とにかく1科目でいいから100点をとる」こと、というのが個人的経験です

人生を決めるのは小中高の学生時代だというのは決して言い過ぎではないでしょう

そしてその要素のひとつが勉強の出来不出来ですよね

勉強(あるいはスポーツ、あるいはひとまとめに人間関係でもいいけど)ができれば人生は輝く(モテる)らしい、じゃあどうすれば、という青(性)少年(少女)たちよ

ほか全部0でいいからひとつ100とれ、と僕が担任なら言います(そして僕は偉い人に怒られる)

 

なぜなら一度100点を取れば、「頑張り方」が体感できるからです

理解できなくてもいい、なんとなく体感できれば

その感覚を知ることができれば、それをほかの教科に応用すればいい

あるいは勉強というジャンルを超えて、部活でも恋愛でも応用すればいい

「頑張り方」は換言すれば「努力の仕方」です

そしてそれはあらゆるものに応用できる、汎用性の高いものです

 

ここで話が繋がるわけですが

「何かに人生をかけたことのある人」というのは、「頑張り方(努力の仕方)」を知っているのです

つまり、その人は、ひとつの道で挫折をしてもまた違う道で必死になれる、七転び八起きさんですね。

そしてこの成功体験とともに失敗体験もしていることがさらに生きてくるのですが

あるいは苦労といった方がいいでしょうか

 

「頑張れない」気持ちがわかるんですよ

 

例えばプロ野球選手を目指して毎日練習していた人も、必ずサボった日があるんですよ

そしてその苦い記憶はずっと残るもので、だからこそ頑張れるんですけど

違う視点から見ると、頑張れていないほかの人を見たときに、「その気持ちわかるよ」って言えるんですよ

自分の弱さを知っているから、他人の弱さを許せると言いますか

あるいは「もう無理!やめる!こんなんいやだ!!」って諦めた(逃げた)人のことも、悪く言えないんですよね、だっていつ自分がそうなるかもわからないから

もしかしたらそれは過去の自分かもしれないし

 

それでですね、「何かに人生をかける」ということは、とても不安定なことでもあるんですね

 

辛いし怖いし不安だし逃げたいやめたいでも負けたくない怖いやだもう無理悔しいまだやれるふざけんな俺の方がでもやっぱ今に見てろもうやめたい楽になりたいでもこれがなくなったら俺は

 

というような無限ループの中で生きているんですね

だからその糸が切れたとき、それはそれは本当に脆い存在になるんです

 

でもそれを知らない人は、叩くんですよ、弱虫!って

例えば、

クスリなんてやるのは心が弱い証拠、クズ、失望した、とか言って

 

ええ、あなたは間違っていないですよ、彼の心は弱っているんです

人生かけてきたものがなくなって、あるいはもう人生をかけられなくなって

心はもうズタボロなんですよ

やめたからズタボロなのか、ズタボロだからやめたのか、それはどっちでもいいんですけど

 

成功体験には失敗体験が必ず伴い

成功体験に至る過程には必ず苦しみがあり

その苦しみの中で必ず弱さが芽を出し

その芽を少しずつ育てながら、あるいは摘み取りながら

いつか楽になることを夢見て、でも妥協はしたくない、死ぬまで苦しみ抜いてやるという思いの狭間で

笑いながら泣いて、泣きながら笑っている

 

そんな情景を想像できる、あるいは身をもって経験した人は

とてもしあわせな人だと僕は思います

そして、とてもやさしい人だと思います

 

ただそんなキビチー世界に足を踏み入れるのも大変ですし

だからまずは1科目でいいから100点とれ!ということになるわけです

まずはその一歩から

 

 

ということで

何かに人生をかけている人たちを描いた作品であり、そんな彼らの強さと弱さを、目を背けずに描ききっている作品を

www.e-hon.ne.jp

 

ハチクロで有名な羽海野チカさんの『3月のライオン』です

既刊12巻、未完です

将棋が題材ですが、将棋がわからなくても大丈夫です、僕はいまだに各駒の動きもよくわかっていません

主人公・桐山を中心にした各棋士たちの「自分との戦い」を見て、何か感じるものがあればいな、と

ですが個人的な白眉は、ヒロイン(だと僕は勝手に思っている)であるひなちゃんの「戦い」です

あー、ひなちゃんと結婚したい

って思いました

 

人生かけまーす、わーーーーーーー。

 

 

『1984年』関連書籍フェアを妄想する

タイトルの通りですが、いくつか紹介しようかなと。

トランプさんが大統領に就任してから米国では『1984年』が売れているとか。

日本でも、なんとも皮肉なタイミングで早川書房さんの「ディストピア関連フェア」が、『虐殺器官』の映画公開に合わせて展開されていて。

 

そして個人的には、大学院での研究テーマがディストピア(ユートピア)文学で、しかも『1984年』で修士論文を書いたこともあり

なんだか嬉しいような困ったような...(だって世界がディストピアに向かいつつあると皆が感じているわけですから)

 

それではなぜディストピア文学が誕生するのか。そして読まれるのか。

それはもちろんディストピアの到来を防ぐためです。

『一九八四年』(早川書房)の帯で(アジカンの)後藤正文さんが書いているように

”実現しない(あるいはさせない)予言書として”

ディストピア小説は存在しているのです。

 

さて、それでは本題に入ります。

 

1. 『動物農場』(ジョージ・オーウェル,早川書房)

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早川epi文庫で新訳が出ました(2017.1)。『1984年』の前日譚というか、入門編としてオススメです。こちらを読んでから『1984年』に進むとより一層理解しやすいかと思います。分量も少ないので読みやすいです。

 

2. 『すばらしい新世界』(オルダス・ハクスリー,早川書房)

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こちらも同じタイミングで新訳出てます。僕は光文社古典新訳文庫から出ているもので読みましたが。

この小説の肝は「一見ユートピアに思える」ところです。「すばらしい」新世界に潜む違和を、ぜひとも感じていただければと。

 

3. 『われら』(ザミャーチン,岩波書店)

岩波文庫から出ていますが現時点では絶版です。すぐに読みたい場合は古本や図書館でお願いします。

1920年代にロシアで執筆されましたが、もちろん本国では発禁処分になりました。つまりそういうことです。

こちらと『すばらしい新世界』『1984年』は3大ディストピア小説と称されています。

とりあえずこの3作を読んでおけば間違いないです。そのためにも『われら』を復刊させましょう。笑

 

ほかにも『時計じかけのオレンジ』(アンソニー・バージェス,早川書房)(http://www.honyaclub.com/shop/g/g12506310/)や『華氏451度』(レイ・ブラッドベリ,早川書房)(http://www.honyaclub.com/shop/g/g16313494/)などもありますね。

前者は映画も秀逸ですし(結末は少し違いますが)、後者は本好きには居ても立ってもいられない作品でしょう。

 

ここからは趣向を変えます。小説以外の、「世界を考えるのに必要な本」を。

 

4. 『隷従への道』(フリードリヒ・ハイエク,日経BP)

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第二次大戦あたりのナチスを中心に全体主義の恐ろしさを検証しています。残念ながら、いまの世界状況(そして日本も)はこの本に書かれていることと一致する部分が非常に多いです。このタイミングで新たに邦訳されたのは意味があると思います。

 

5. 『何度でもオールライトと歌え』(後藤正文,ミシマ社)

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自分が住む世界に対して無関心でいること、そして知っていながらも声を上げないこと。そんな姿勢ではディストピアがやってきてしまうことを再認識させられます。「音楽に政治を持ち込むな」なんて言っていられる平和な時代はもう終わったのではないでしょうか。

 

6. 『となりのイスラム』(内藤正典,ミシマ社)

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もうひとつミシマ社から。イスラム世界とキリスト世界の軋轢が大変なことになっていますが、恐怖(と憎悪)の源は「無知」から生まれるのであって、この本を読み終えたとき、そこには少なくともそういった感情は生まれないのではないかと。

 

7. 『夫のちんぽが入らない』(こだま,扶桑社)

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どこがディストピア関連なのかと思うかもしれませんが(いやたしかに「入らない」のはディストピアかもしれないけど...)、この世界を住みにくくする原因のひとつである「ふつう」についてのお話だと僕は解釈したので。

絶対的な「ふつう」を追求し、その「ふつう」を皆に求めることは、その「ふつう」に当てはまらない誰かを傷つけ迫害することになる。あとがきにある、教え子の現在についての著者の受け入れ方に、僕はこだまさんの凄さを感じました。並大抵の人には不可能な受容の仕方ではないでしょうか。彼女(教え子)にとっての「しあわせ」「ふつう」をそのまま受け入れる。感嘆です。

 

8. 『この世界の片隅に』(こうの史代,双葉社)

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最後はこちら。この作品のテーマは『1984年』と同じです。

過去、そして記憶をどう扱うか。

その扱い方の違いが、それぞれの結末に違いを生み出しています。

とてつもない作品です。読んでください。あるいは観に行ってください、映画を。

オススメは映画→原作→映画です。

あえて説明はしません。読めば(観れば)わかります。

わからなかった人は、想像力を鍛えなおしてください。

 

 

最後に。

ディストピアを生み出す原点は「無知」です。

知らないものに対しては、理解も寛容も生まれません。

そのものを知ること。

そこから想像力の助けを得て共感が生まれ、受容と赦しが生まれます。

 

 

まだまだ紹介したい本はありますが、忠犬カタコリイヌが顔を出しているので終わりにします。

はやく自分のお店を持って(あるいは社員になって)、こういうフェアを展開したいなーという妄想でお送りしました。

この妄想をカタチにしてくれる素敵な方がいらしたら、許可なんていらないのでやってください。笑