この国が『1984』化していることについて

1年とちょっと前に大学院の学内冊子的なものに寄稿した論文を公開します。



当時もこの国の政治に対して危機感を抱いていましたが、まさかここまで酷くなるとは思いませんでした。リアル『1984』が到来してしまいました。1984年のイギリスではなく、2010年代の日本で。


駄文かつ(いま改めて読み返すと)矛盾したり飛躍してたりする部分もありますし、いまの日本の状況に直接的に関わることが全てではありませんが、考えてることの本質はいまも変わりませんし、伝わると思います。


また、「虚構(=想像)」の部分に関しても、わかりにくい、誤解させてしまう内容になっています。簡単に説明すると、僕のいう「虚構(=想像)」はふたつあるんです。支配者が己の欲のためだけに生み出すそれと、支配に抗うために私たちが持ち続ける必要があるそれ、このふたつです。ただ、ちゃんと説明するとそれだけでこのエントリが終わってしまうので、気になる方は質問を飛ばしてください。



とにかくこの論文が、いまの(というかここ数年の)日本で何が起きている(いた)かを理解するきっかけになれば、という気持ちでいっぱいです。


トランプ政権が誕生したときにアメリカでは『1984』がベストセラーになったそうです。正直、その当時(といま)のアメリカよりも、この国のほうが『1984』です。なので日本でも『1984』がベストセラーにならないとおかしい、というかならないとやばいんですよね。つまり、多くの人が「やばさ」に気づいてないということで、それはそのまま私たちが『1984』の世界の中の人たちのようになってしまっている、ということだからです。彼らはB・Bや党のやってることを「おかしい」と思えないようになってしまっている。同じことがいまの日本で起きている、そういうことだからです。


前置きが長くなりましたが、なにかの参考になれば幸いです。








現実(事実)と虚構(想像)の混在−−−−Nineteen Eighty-Fourと『この世界の片隅に』から読み解く文学が持つ意義

 

関口竜平

 

 

 歴史は繰り返すとはよくいわれるものの、実のところ歴史は、「繰り返す」のではなく「繰り返されている」のではないか。歴史とは人々の意思や行動の積み重ねから成るものであり、ゆえに意識的に歴史を「繰り返させる」ことも可能である。そしてそれを容易に行なえるのがときの権力者であり、私たちは彼らの作り出す歴史のなかに生かされているだけなのかもしれない。

 ジョージ・オーウェル(George Orwell, 1903-50)Nineteen Eighty-Four(1949)は、私たちにそのことを強く意識させる。人々は言動のみならず内面まで監視され、過去が常に改変される世界に生きている。「過去をコントロールするものは未来をコントロールし、現在をコントロールするものは過去をコントロールする」(56)という党のスローガンからは、権力者によって繰り返される彼らにとっての都合のよい歴史、という印象を私たちに与える。そしてこのフィクションのなかで繰り返される歴史は、現実世界において繰り返されてきた歴史でもある。

 Nineteen Eighty-Fourは当時ソ連ファシストらによって現実に行なわれていたことをフィクションのなかで批判したが、それと似たようなことが現にいま繰り返されている。日本では、戦争法案と批判される法案が可決され、人々の内心の自由を侵害する可能性のある法案の提出も、本論を執筆しているいま取りざたされている。世界に目を向ければ、Post-truthという言葉が誕生するほどに、過去と現在がコントロールされ嘘と真実の見分けがつかない世界になりつつある。

 未来を私たちの意思で作るために、私たちができることはなんだろうか。それは、過去を私たち自身のものとして持ちつづけることである。それはあるいは、私たちのなかにあるおのおのの記憶を誰に侵されることもなく守りつづけることともいえる。過去の事実や記憶を汚されることなく持ちつづけることで、彼らに歴史を「繰り返させる」のではなく、私たち自身が歴史を「作り出す」こと、その力を取り戻すことが必要ではないか

 そのヒントをNineteen Eighty-Fourと、2016年に映画化され大ヒットしたこうの史代(1968-)の『この世界の片隅に(2009)(以下、『片隅に』)から探るのが本論の試みである。『片隅に』の詳細はのちの章で述べるが(Nineteen Eighty-Fourも同様)、どちらの作品も、「現実と虚構(想像)の混在」がテーマのひとつになっている。そしてこの混在は、過去あるいは記憶がもとになって生まれるものである。過去そして記憶を保持し守りつづけること(あるいはそれができないこと)によって、そこに描かれる未来はどのようなものになるのか、これから読み解いていく。そしてそれはフィクションの世界を飛び出し、私たちの現実世界へと繋がることになる

 1章ではNineteen Eighty-Fourを扱い、現実=事実が侵害されることによる現実と虚構(想像)の混在状態の崩壊と、その結果として失われる主人公ウィンストンの現在と未来という構図を考察する。2章では『片隅に』を扱い、すずの右手(=想像)が失われることによる現実と虚構(想像)の混在状態の崩壊と、過去=記憶を守りつづけることによってその崩壊状態から回復するという構図を考察する。最終章では現実と虚構(想像)の混在をテーマに、現実を守ることによって生み出される未来と、想像力によって生み出される共感その共感が紡ぐ過去と未来の繋がりについて述べる。歴史=過去=事実を知ることで「繰り返される」歴史から悲劇を生み出さないように、そして想像力=共感力によって未来を創造できるように、文学が果たすべき意義を宣言する。

 

1. Nineteen Eighty-Four−−−−現実=事実の侵害

 本章では、思想の自由の喪失や過去の改変作業などによって過去と現在が侵された世界を描くNineteen Eighty-Fourから、現実と虚構(想像)の混在が崩壊する様子をみていく。

 

1-1. 世界観

 まずは作品の世界観を簡単に説明しておく。主人公ウィンストンの住む国はオセアニアと呼ばれ、核戦争後に世界が3つの超大国に分かれたうちのひとつである。オセアニアはビッグ・ブラザー(以下、BB)が党首のBB党が一党独裁する国であり、厳格な監視社会となっている。階級は主に3つに分かれ、最上位の党中枢は俗にいう貴族階級であり、国を司る権力を握っている。その下に属するのが中産階級の党外郭で、テレスクリーンと呼ばれる監視装置と思考警察による常時監視状態の下で暮らしている。最下層に属するのはプロールと呼ばれる貧民層である。彼らは貧困と教養のなさを理由に党から反乱の危険性がないと判断されているため、基本的には党の監視による制約を受けない。思想統制の目的で上位2階級が使うよう奨励されている英語に代わる新言語(ニュースピーク)も彼らは使っておらず、英語のままである。

 基本的に内(=思想)も外(=言動)も自由は存在せず、党の決める正統から外れたものは思考警察によって捕らえられ、拷問ののちに改宗、そして存在自体の抹消が行われる。そしてその党の決定する正統はいつでも変更が可能であり、その根幹を支えているのが二重思考という思考体系と、その産物としての過去の改変である。二重思考とは、「ふたつの相矛盾する信念を心に同時に抱き、その両方を受け入れる能力」(328)であり、嘘を嘘と知りながらもそれを真実だと信じること、そして嘘をついているということを忘れ、さらにその忘却行為すらも忘れ、という無限循環的な行為である。そしてこの原理をもとに行なわれるのが過去の改変である。党は党にとって都合のよい現在を作り上げるため、常に過去を変更する。そしてその繰り返し(と二重思考による改変行為の忘却)によって、真に存在した過去というものがあるのかどうかすらわからなくなっている。

 そのような世界に生きるウィンストンは疑問を抱き、同じような思いを持つ女性ジュリアとともに反体制派となる。彼らの“革命”は順調に思えたが、仲間だと思っていたオブライエンが実は彼らを監視する存在であり、ふたりは思考警察に捕らえられてしまう。オブライエンら愛情省の人間によってウィンストンとジュリアは拷問を受け、BBの掲げるイングソックの原理(つまり二重思考や過去の改変)を信ずる者に改宗されてしまう。つまり、彼らは現実(事実)がいつでも変更可能な世界を受け入れてしまったのである。

 

1-2. ウィンストンの役割−−−−現実(事実)の守護

 過去を都合よく変更する党にウィンストンは抵抗する。彼は自分のなかにある記憶をもとに、真実つまり党によって手の加えられていない過去がどのようなものだったかを見つけ出す、あるいは保存しようとする。

 ウィンストンは皮肉にも党の公式見解をもとに記事の書き換えを行なう職に就いているが、彼はそこで過去の改変が行なわれている証拠を目にする。それはかつて反逆罪で処刑された人間のアリバイとなる記事で、党が記事の書き換えをし忘れていたために、現在の事実とは辻褄の合わない過去が存在してしまっていたのである。ウィンストンはそれをきっかけに党への疑問を持ち始め、「過去」に対する思いを強める。

 その過去のひとつが母(と妹)に関する記憶である。ウィンストンは母に関する夢をみることが多く、それをきっかけに過去についての回想をはじめる場面が多く描かれる。たとえば党が権力を握る前、核戦争が行なわれていた時代に、父に手を引かれ母と妹ともに地下深くへ避難する記憶をウィンストンは持っている(53)。また、ジュリアが隠し持ってきた本物のチョコレートをきっかけに何かの記憶が押し寄せてくる場面があるが、それはのちに母と妹に関するものであることがわかる。

 

しかしいつのことだったか、彼は彼女がくれたものに似たチョコレートを口にしたことがあった。最初にぷんと来た匂いを嗅いだとき、いつどこでのものかはっきりしないが、刺激される記憶があった。強烈でどこか不安を覚える記憶。(187)

 

チョコレートの最初の一口はすでにウィンストンの舌の上で溶けていた。おいしかった。しかし例の記憶がまだ意識の片隅で揺れ動いている。それは目の端で捉えた対象のように、何か強く感じられはするけれども、明確な形へとは収斂していかないもの。彼はそれを意識から追い出した。分かったのは、それが取り消したいけれどもできない何らかの過去の行動についての記憶だということだけだった。(188)

 

 その忘れたい記憶とは、配給されたチョコレートを妹のぶんまで食べてしまったこと、そして家に帰ると母も妹も消えていたことに関する記憶である(251-252)しかし、忘れたい記憶であるにもかかわらずウィンストンはしっかりと保持していることも確かである。のちの章で詳述するが、物語の終盤における重要な場面でも母と妹の記憶について描かれており、母(あるいは家族)に関する記憶が持つ意味は物語の鍵になっていることがわかる。

 母と妹に関する記憶以外でも、ウィンストンは過去に対する言及が多い。しかし家族に関するものと違って、しっかりと記憶を保持できているわけではない。物語の序盤、ウィンストンはかつてのロンドンを回想する。

 

彼は子供の頃の記憶を必死にたぐり寄せながら、ロンドンが昔からずっとこんな風であったのかを思い出そうとした。(中略)しかし無駄だった。どうしても思い出すことができない。眩いばかりの光に照らされた劇的な情景が次から次へと何の背景もなく、ほとんど脈絡もなく現れるだけで、子供時代の記憶は何ひとつ残っていなかった。(10-11)

 

かつてのロンドンである<第一エアストリップ>は、現在では街中のあらゆるものの名称が変更され、場合によっては名称を奪われ名無しになっているものもある。つまり過去が奪われており、ゆえにウィンストンの記憶も曖昧になってしまっているのだろう。

 ほかにも彼はプロール街の酒場で、プロールの老人に革命前の暮らしぶりをたずねる(136)しかし結果は散々なもので、老人はとりとめのない昔話を酔いに任せて語るだけだった。過去が常に改変され、加えて外界との接触も遮断された世界においては、人々は比較基準がないために現状の把握も難しく、ゆえに記憶として保存することもままならないのである。

 しかしそれでも(それゆえに)ウィンストンは過去の記憶を追い求める。プロール街にある古物店で彼は日記帳を買い、日記を書くという禁じられた行為をはじめたのだが、のちに彼はそこで古いガラスの文鎮を手にする。それは作られてから100年以上が経ったとされる代物で、ウィンストンは美しさを感じ購入する(146)。それは「現在とはまったく違う時代の産物であるという佇まいを備えて」(146)おり、「党員が私有物として持つには奇妙なものであり、危険なもの」(147)だった。なぜなら「古いものは何でも、いや、美しいものであれば何でもと言うべきだろうが、つねにどことなく胡散臭さが漂う」(147)と党が判断するからであり、このことは党が古いもの=過去に対する恐怖を抱いていることのあらわれといえるだろう。

 つまり過去(あるいはそれを思い起こさせる記憶)は、党の支配を脅かすものなのだ。党の公式見解と異なる過去の記憶を持つ人間が存在することは決して許されず、その記憶を生み出すような過去の代物も存在して欲しくないのである。党にとっての過去(=常に変更が可能で、現実に存在したかは問われない過去)と違い、ウィンストンは「現実として確かに存在した過去」すなわち事実(真実)を求め、またそれを守ろうとする。この物語は党とウィンストンの「過去」を巡るたたかいを描くものといえる

 

1-3. ウィンストンの敗北−−−−現実(事実)の否定

 そのたたかいは党の勝利で終わる。ウィンストンは自らの過去=記憶を否定し、党の過去を受け入れてしまうのだ。その象徴となる場面は物語の最終盤で描かれる。改宗ののち釈放されたウィンストンは、いつの日か行なわれるとされる処刑を待つ人々が集う<栗の木カフェ>にて、母と妹の記憶を回想する(459-461)。それは母と妹との別れからひと月ほど前の出来事であり、3人で双六のようなゲームをした記憶である。そのなかで彼ら3人は笑っており、「和解の瞬間」(460)であり、彼らは「幸せをたっぷり味わった」(461)のだ。しかしウィンストンは「その情景を頭から締め出した。それは偽りの記憶なのだ」(461)と、記憶を否定してしまう。そしてその代わりに、現実ではない妄想を受け入れてしまう。

 

勝利の知らせは魔法のように街を駆け巡った。テレスクリーンから流れてくるニュースから何とか聞き取ったところによると、現実に彼の夢想したような事態が生じているようだった。巨大な艦隊が密かに編成されて、敵の後方から奇襲を仕掛けたのだ。つまり白い矢印が黒い矢印の後方を切り裂いたのだ。(461-462)

 

その前にウィンストンはチェスをしながら、

 

彼は白のナイトをつまんで、盤上を移動させた。ここしかないだろう。黒い大群が全速力で南下しているところを、密かに集結した別の部隊がいきなりその背後に回り込み、陸路、海路による敵の補給線を断ち切ってしまう。こんな光景を強く念じれば、その別働隊を現実のものとすることができるような気がした。(451)

 

と、オセアニア軍の勝利を頭の中で作り上げていたのだが、その虚構が現実に起きたこととして彼には認識されることになる。

 オブライエンによる改宗の手ほどきを受けている際には否定していた「現実は党の精神のなかにのみ存在する」(385)という考えを、ウィンストンは最終的に体現することになる。このことが表しているのは、現実(事実)の否定であり、ゆえに虚構のみが存在する世界を容認することである。二重思考と過去の改変によって現実と虚構の区別がつかなくなり、最終的には虚構が支配するようになる世界において、ウィンストンは現実(=過去の記憶)を守ることでそれに対抗していた。つまり党の要求する思考様式を完全に受け入れてしまった人と違い、ウィンストンは現実と虚構が共存する世界を生きていたのだ。あるいは世界が虚構に侵食されるのを拒んでいたともいえる。しかし、客観的な事実に関する記憶(=ロンドンの街並など)のみならず主観的な事実に関する記憶(=母と妹)までをも失い、彼も虚構に満ちた世界を生きることになってしまう。これがNineteen Eighty-Fourの世界であり、結末である。

 

2. この世界の片隅に』−−−−記憶と想像力

 Nineteen Eighty-Fourと同様に、過去の記憶をテーマに現実と虚構の入り混じる世界を描いているのが『片隅に』である。過去(記憶)を否定し虚構に飲み込まれたウィンストン(と彼の住む世界)に対して、『片隅』では同様のテーマがどのように描かれるのか、そしてそこに生み出される異なる結末をみていく。

 

2-1. 世界観

 まずは『片隅に』の世界観を紹介する。主な舞台は太平洋戦争中の呉、そして広島である。大正14広島の江波、海苔の養殖を営む両親の間に生まれたすずは、19歳のときに呉の北条家へと嫁ぐ。夫の周作、義父母、周作の姉径子、径子の娘晴美との、戦時中でありながらも穏やかな暮らしがはじまる。しかし戦況が悪化するにつれ生活も苦しくなり、昭和206月には空襲後に残された時限爆弾によりすずは晴美(と自らの右手)を失う。そして8月には広島に原爆が投下され、終戦を迎える。

 『片隅に』は徹底的な時代考証を下敷きとしており、歴史的事実が頭に入っていれば特に世界観の紹介は不要であるほど、「現実に即した」作品である。よって作品そのものが現実(史実)と虚構(すずたち登場人物と彼らの物語)が混在したものともいえる。しかし本論で取り上げるのはそこではなく、すず(右手)の持つ想像力と記憶の器としてのすず、というテーマである。以降、物語のあらすじを織り込みながら上のテーマを考察する。

 

2-2. ばけもん

 すずは幼い頃、取引先に海苔を渡すおつかいの最中に、食糧を求めていた「ばけもん」さらわれる。周作も同様にさらわれており、そこでふたりは出会っている。しかしこの場面は現実に起きたことなのか、「よく人からぼうっとしていると言われる」(16, 上巻)すずの想像上の出来事なのかがはっきりしない。一方、周作とはじめて出会ったことはのちの周作のセリフ(138, 下巻)から現実のことだと断定できるうえ、「ばけもん」を退治するのに海苔を使ったため「のりが1枚足りなくて翌日父が大慌てでおわびに行ったのも確か」(16, 上巻)なのである。そして『片隅に』は基本的に「現実世界のものは太い枠線のコマで描かれ」ており、「対して、すずが想像したものや、夢うつつの状態で見たものは、細い枠線コマで描かれ」(143, 公式アートブック)というルールに則っており、「ばけもん」は前者のコマ内に登場している。このように、現実と想像の区別が曖昧なのがすずそして『片隅に』の特徴であり、この曖昧さが物語の最後まで一貫して描かれる。

 

2-3. 右手の役割

 作品内において現実と想像の境を曖昧にしているのが、絵を描くというすずの趣味である。たとえば妹すみのために兄要一を題材にした絵を描いたり(23, 上巻)、同級生の水原の代わりに海の絵(白波を飛び跳ねるうさぎに模したもの)を描いたり(45-49, 上巻)している。もちろん現実世界を描き写すこともある(たとえば広島に別れを告げるために街の風景を(102-104, 上巻)、あるいは晴美の兄久夫のために艦隊と海岸線を(5-6, 中巻)模写したりする)が、より重要なのは想像の世界を描くことにある

 すずにとって絵を描くという行為は、想像の世界への逃避という意味をある程度持っているように思える。そしてその絵を描いている右手には、作品の根幹ともいえる重要な役割が担わされている。しかしその右手は時限爆弾によって晴美とともに失われる。そして右手を失ったことをすずが自覚してからは、すべての背景が「まるで左手で描いた世界のように」(60, 下巻)歪んだものになる(実際にこうのは左手で背景を描いた)

 すずの右手の喪失は、彼女が想像の世界に逃げ込むことができなくなったことを意味する。つまり押し寄せてくるつらい現実(悪化する戦況、晴美の死、自身の右手の喪失など)から目を背け、あるいはその現実を想像に転化することができなくなる、ということである(幼少期に要一に怒られたあとに「鬼イチヤン」と題打った漫画を描いていたことは象徴的である)

 しかし物語の終盤、終戦を知らせる玉音放送を聴き怒りや悔しさがこみ上げ涙するすずの頭を、失われたはずの右手が撫でる描写がされる(96, 下巻)。以降、右手は様々な場面で登場し、すずの目に映る現実世界に想像の世界を付け加える。右手とともに失われたはずの想像の世界が復活するのだ。

 

2-4. 失われた想像力とその回復

 すずの右手は絵を描くためにあり、それが想像力を象徴することは理解できるだろう(もちろん現実世界を描くことも含まれるが、より重要なのは想像の世界を描くことである)。そしてその右手(=想像力)は一度失われるものの、なぜか復活するのである。その理由は、すずが「記憶の器」としての自分を自覚したことにある(126, 下巻)

 

生きとろうが死んどろうが もう会えん人が居って ものがあって うちしか持っとらんそれの記憶がある うちはその記憶の器として この世界に在り続けるしかないんですよね(126, 下巻)

 

というすずの決意は、過去の記憶つまり過去に起きたことを忘れずに守りつづけようという意志の表れである。

 これは過去の記憶を否定したウィンストンと対照的である。過去つまり現実世界を否定し虚構の世界に飲み込まれてしまったウィンストンと、想像(虚構)の世界を失うも過去の記憶という現実を保持することで想像力を取り戻したすず、という構図になる。換言すれば、現実を放棄し虚構に支配された世界を生きることになったウィンストンと、現実を受け入れ記憶として残すことで想像の世界を回復したすず、となる。つまりすずは、記憶の器となることで現実と想像が混在していた世界に戻ることができたのだ。

 そして現実と想像の混在を象徴する「ばけもん」は物語終盤で再登場する。それはかつて「ばけもん」から逃れたすずと周作が会話をし別れたのと同じ橋の上で、「この世界の片隅にうちを見つけてくれてありがとう 周作さん」「ほいで もう離れんで… ずっとそばに居って下さい」(140, 下巻)と、すずが周作に感謝と願いを伝える場面である。そしてすずは周作の服(あるいは右手)を掴もうとして、後ろを通りかかった「ばけもん」の服(と右手)を掴んでしまう。これは残されたすずの左手(現実=記憶の器)と、想像の産物である「ばけもん」の右手(想像)握手であり、両者がつながっていることを表しているのではないか。また、この場面の前に、戦死した兄要一が南国の島でワニをお嫁さんにし、生活をつづけるうちに毛むくじゃらの「ばけもん」となり、食糧を求めて旅に出る、という「鬼イチヤン冒険記」なるものが挿入されている(132,135,139, 下巻)。もちろんこの冒険記は“細い枠線のコマ”のなかに描かれている。現実と想像が繋がっていること、あるいは混在していることを強く印象付けるだろう。

 

2-5. 共感、そして未来をもたらす想像力

 過去を否定し処刑を待つのみとなったウィンストンと違い、記憶の器として過去を守ることを決意したすずには未来が開けている。それを象徴する場面が、最終回しあはせの手紙で描かれる。

 この回は、「突然失礼致します」と右手が登場し、その右手によって戦災孤児の回想が描かれる手法によって前半部分が進んでいく(141~, 下巻)。もちろんそのコマは“細い枠線”である。そして広島駅にたどり着いた戦災孤児はすずの落とした握り飯を拾う(このあたりから“太い枠線”になる)戦災孤児は落とし主のすずを見やり、その右手がないことに気づく。それは戦災孤児を原爆の爆風から守り右手を失った彼女の母親(そののちに死亡)の記憶を思い起こさせ(“細い枠線”の回想が挟まれる)戦災孤児は拾った握り飯をすずに返そうとする。握り飯を差し出されたすずも戦災孤児と晴美が重なったのだろうか、戦災孤児が拾った握り飯をそのまま食べさせる。そして戦災孤児は母親の記憶とすずを重ね合わせすずの右腕にすがりつき、晴美の記憶と戦災孤児を重ね合わせたであろうすずは彼女を引き取り呉に連れて帰る(146-149, 下巻)

 すずも戦災孤児も過去の記憶によって共感が引き起こされ、ともに歩む未来がもたらされている。一方Nineteen Eighty-Fourでは、ウィンストンとジュリアは釈放後に再会し会話もするが、改宗され過去を否定しお互いを裏切ったあとのふたりには、その先の未来は提示されない(452-457)この結末の違いは象徴的である。

 

3. 文学の意義

冒頭でも述べたように、歴史は繰り返すものではなく繰り返されているものである。そしてその繰り返される歴史を、自らの欲望のために悪用する権力者たちから守り、私たち自身の手によって歴史を作っていくために、文学の持つ意味を考えたい。

 

3-1なぜ歴史は「繰り返す」のか

歴史が繰り返される原因のひとつは過去の忘却である。過去に何が、誰によって、どのようにして起きたのかを忘れてしまえば、同じことが起きてしまう。そしてそれが起きたときには、それが繰り返されていることに気づくことはない。これは私たち自身の心がけの問題である。過去を忘れないよう意識し、実行することは可能である。

もうひとつの原因は過去の改変、あるいは隠蔽である。これはときの権力者によって常に行なわれてきたことである。彼らにとって都合の悪い事実(=歴史)は改変するか隠蔽するかして、都合のよい状態にしてしまえばいい。

よって私たちは、「歴史は繰り返す」と感じてしまうのだろう。そして実際に歴史(あるいは記録)は何者かの手が加えられたものなのだ。それはひとを介して行なわれる作業である以上不可避の現象である。同様に、記憶も個人のフィルターつまり主観を通したものであり、真に客観的なものにはならない。つまり私たちの生きる世界は、原理的に現実(真実、客観的事実)と虚構(想像、主観的事実)の混在する世界にならざるをえないといえるだろう。現実(真実、客観的事実)はたしかにそこに存在する(していた)が、それが歴史(記録)や記憶となる際には、虚構(想像、主観的事実)の混入は避けられないのである。

 

3-2. 「ゼイタクな」こと

 ならば私たちのすべきことは明白である。たとえあらゆるものが手を加えられているとしても、それらを否定し忘却することは、ウィンストンのような未来を招くことになるだろう。自らのうちにある過去の記憶を否定し忘却することは、その記憶(たとえそれが主観による色付けや記憶違いによって真実ではなくなっていたとしても)のもととなった過去の事実をも抹消することになる。つまりウィンストンは、客観的事実も主観的事実も手放し、党の作る事実のみを選択したのである。その結果、「過去が消され、その消去自体が忘れられ、嘘が真実となる」(116)世界を彼は受け入れてしまう。

 一方、ウィンストンとは対照的にすずは自らの記憶−−−−たとえそれが負の感情を引き起こすものだとしても−−−−を否定せず、記憶の器であることを誓う。印象的な場面として、遊女リンとの秘密に関するものがある。リンはかつて周作の想い人であり、そのことをすずが知ったことを把握したうえで、「人が死んだら記憶も消えて無うなる 秘密は無かったことになる それはそれでゼイタクな事かも知れんよ」(135-136, 中巻)とリンはすずに告げる。そしてリンが空襲で死んだであろうことをすずが確認する回(「りんどうの秘密」)で、空襲で焼かれ倒壊したリンの勤め先の軒先で、すずは「ごめんなさい リンさんの事秘密じゃなくしてしもうた……………これはこれでゼイタクな気がするよ…(112, 下巻)と、リンを思いながら語りかける(すでに周作にリンと知人になったことを告げていた)。この回は基本的に遊女仲間のテルからもらった口紅によって描かれており(これは過去の回想や、すずが実際に見ていない世界を表している)引用のすずのセリフが挿入される場面では、口紅で描かれる背景とリン(すでに失われたもの、記憶のなかのもの)に実線で描かれるすず(現実)が寄り添う様子が描かれている。記憶を持ちつづけること、あるいは他者と共有することによってもたらされる「ゼイタク」を表しているといえるだろう。

 もちろんすずの持つ記憶は十分に主観的であり、脚色されていることも確かである。しかし純粋に客観的ではない記憶だとしてもそれを持ちつづけることは、戦災孤児との出会いに象徴されるように、他者への共感を生み、ゆえに未来を生み出すものとなる。

 そして真実(=客観的事実)をもとにした記憶・記録(=主観的事実)は、先だって述べたように過去の過ちを繰り返さない(あるいは繰り返させない)ために必要なものとなる。このことは、歴史的事実を背景に作られる文学作品という構図とも重なり、文学が持つ意義も示唆してくれる。つまり、現実をもとにして生み出される虚構=文学作品であり、文学作品を生み出しそれを後世に残していく試みは、過去を守り未来へと繋げることと同義である。そして過去の記録や記憶を素材に描かれるものから私たちは他者の視点を得ることができ、想像力と共感力が生み出されるのである。

 

3-3. 現実と虚構の混在

 そして私たち文学研究者もまた歴史の担い手であることを忘れてはならない。文学作品を解釈しそこに意味を与えるという行為は、すずが晴美やリンとの記憶に意味を持たせたのと同じことである。受け取ったものに自分なりの意味を持たせ、それを未来に残すという大切な使命を私たちは担っているのだろう。

 私たちの生きる世界に純粋に客観的なものは存在せず、あらゆる記憶と記録には主観が入り混じることになる。ゆえに100%ありのままの正しい歴史は存在しない(もしあるとするならば、それが起きた瞬間のみに存在するのだろう)というより正しい歴史も間違った歴史もなく、ただただ純粋に私たちが受け継いできた(そしてこれから受け継いでもらう)記憶と記録があるのみである。しかしだからといって、それを「真実ではない」と否定してはならない。そこには未来を生み出す想像力と共感力の源が隠されているし、過去の過ちを繰り返さないためにも必要だからだ。だからこそ私たちは、たとえ日記帳の片隅にだろうとそこに何かを残していく必要がある。その小さいながらも延々とつづく積み重ねが、歴史を構成するのである。そしてその歴史はいつか「歴史」として未来の人々によって知られ、彼らなりの意味を持たされるものになるのだろう。こうして過去と未来は繋がるのであり、現実と虚構が混在する文学作品は、同様に現実と虚構が混在する私たちの現実に、想像力と共感力をもたらしてくれるのである。現実も、そして虚構も手放してはならないのだ。

 

 

引用文献

ジョージ・オーウェル高橋和久訳、『一九八四年』、早川書房2009年。

こうの史代、『この世界の片隅に』上中下巻、双葉社2008-2009年。

このマンガがすごい!』編集部編、『「この世界の片隅に」公式アートブック』、宝島社、2016年。

 

参考文献

この世界の片隅に」製作委員会編、『この世界の片隅に劇場アニメ公式ガイドブック』、双葉社2016年。

明石陽介編、『ユリイカ 詩と批評 201611月号 特集:こうの史代』、青土社2016年。


「ちんぽ」にはじまり「ちんぽ」におわるステキオブザイヤー2017

普段は一年を振り返るなんてことはしないのだが今年はそうもいかない。はじめての海外経験で骨折をしたり(13歳・サッカー合宿)、鶴岡八幡宮の御神木が倒れた朝に遭遇したり(17歳・倒れてるから有名なのかな?などと思いスルーして帰宅した)、その他にも数々のユニークな経験をしてきていながらこれまで「今年を振り返る」ことはしてこなかった。そんなあたしが振り返ってしまうほどの2017年とはいかに。以下、月ごとに雑記。最後にまとまらないまとめ。

 

1月

奨学金返済免除のポイント稼ぎのための論文を、一番大事な修論提出後から10日ほどで書き上げる(修論は12月中にほぼ完成させた)。がんばった。内容を大雑把に記すと、オーウェル1984年』とこうの史代この世界の片隅に』を、「過去や記憶についての描かれ方の違い」という観点から考察し、その違いが生み出す結末の違いなどを、現代社会の現状を踏まえながら調子に乗ったことを書いた。とにかくノリに乗っていた。完全なるサーファーキング、相当愚かなメメメメメリケーンだった。

 

そのクソみたいな論文を書き上げた開放感を肴に、こだまさんの『夫のちんぽが入らない』を読んだ。王様気取りのメメメメメリケーンは、好きな女の子を目の前にしたヤンキーのように毒気を抜かれた。これは今年のベストオブベストだ。今年の「超俺的最高de賞 Hey, メーン?」の一位は確定してしまった。そう思った。そしてそれは間違いじゃなかった。いまこれを書いている時点で更新する作品は出てきていない。

 

 

2月

何をしていたか全く思い出せない。下旬の誕生日あたりに温泉に浸かっていたような気がするが、それは前年のことかもしれないし、もしかしたら来年のことかもしれない。唯一覚えているのは村上春樹の新作の表紙がダサかったこと。

 

 

3月

京都へひとり修了旅行。三月書房、ホホホ座、恵文社、誠光社などなどを回る。修了証書を受け取る。卒業ライブに出る。リードギターとドラムは5歳下の大学一年生。ちなみにギターの彼は留年して今年2回目の一年生をしている。かっこいい。コピーしたのは星野源。今日はじめてドラマを見た。細切れに。とにかくみくりさんがステキ。

市ヶ谷の書店での勤務を終える。出版業界に迷い込むきっかけとなった原点。正直やめたくなかったからギリギリまで勤務した。ほぼレジ業務だけで棚を触ることは基本的にはなかったけど、ここで働いたことが確実に「はじめの一歩」となっている。感謝。

我らが千葉ロッテマリーンズはオープン戦優勝。期待に満ち溢れる月となった。

 

4月

取次入社。研修。5月の配属決定以降、数ヶ月間の記憶がない。

 

 

 

というのは嘘だが、正直いまここで振り返ってみて、春に取次に入社していたという実感がない。実際に「取次の仕事」をさせてもらえなかったのだからそうなるのも必然かもしれないがー。詳細はあれだ。もうめんどいから書かない。愚痴と嫌味はもう十分に吐いた。

なお、この時期に我らがマリーンズも今季終了が確定した。

 

5月31日

上司に退職を願い出る。上司や本社人事との数回の面談ののち、6月末での退職が決定。

6月中旬より人生で最初で最後となる可能性の高い有給休暇というものを行使。しかもフルに。ついでにこれまた最初で最後になる可能性の高いボーナスとやらも少額ながらもらう。ちょっとおもしろかった。奨学金返済免除の通知も来た。調子に乗った。

我らがマリーンズは世界チバ遺産・井口資仁が今季限りでの引退を発表。

 

7月1日

プー(無職)になる。それでも己の欲望のままにハチミツを貪り食う、友達であるはずのウサギだか豚だかよくわからないピンクの奴を酷い目に合わせてまで人生を謳歌しようとするお腹の出ているクマみたいなおっさんになるよりはマシだと言い聞かせる。何を言っているかはよくわからないし深い意味も深イイ意味もない。

7月は本当に考え抜いた1ヶ月だった。この先どうしたいのか。どうすれば、自分の進みたい方向へいけるのか。近道である必要はなく、遠回りでもいいから目指す方向へはいける道はどれか。正直、精神状態は不安定だったというか、結構辛かった。自分から会社をやめておきながら自信がなくなりかけていた。

 

7月下旬

覚悟を決める。学部時代にやりたいことが見つからず修士に進み、やっと見つけたやりたいこと、ができる「はずだった」会社をわざわざやめておいて、「自分が面白いと思えない」ことをしちゃいけない。「ふつう」の道は似合わない。大変でも、面白い方に行こう。ええい。

 

ということで

8月

「ト」ではじまる直の版元と、「と」ではじまるチェーン書店の「志」ではじまる支店で働きはじめる。もちろん正社員ではない(ちなみに取次の方も社員見習いみたいなのだったからこのままいくと正社員経験なしで死ぬことになる。最高)。同時に自分の本屋「lighthouse(ライトハウス)」も準備をはじめる。

我らがマリーンズは伊東監督が今季限りでの辞任を発表するも、チームの調子はわずかながら上向く。

 

9月

当初計画していた形でのライトハウスが実行できなくなる。暗雲立ち込めるも思いついたのはモバイルハウス本屋だった。ちょうど下旬に伽鹿舎ひなた文庫のイベントもあるし、熊本行って坂口恭平氏のモバイルハウスを見てこよう、なんなら話も聞けるかな?などと勢いで氏にメールを出す。要約すると、いまは自分の作品に集中しててイイ感じだからごめんね、でも応援してるよ、という「らしさ」前回の素敵な返事をもらう。嬉しかった。

とはいえ熊本に行かない理由はないのでジェットスターでびよーんと。とりあえずくまモンだらけで心配になった。イベント前に橙書店に行ったら坂口氏が執筆作業の真っ最中だった。店主ととても楽しそうに作品談義をしているので、邪魔してはいけないと声はかけず。

とにかく熊本は最高だった。熊本から帰る日、我らがマリーンズは井口さんの引退試合。井口さん自ら打った9回裏の同点ツーランを熊本空港行きのバスでリアルタイムで観る。その後サヨナラ勝ちを決めるシーンも空港内での待ち時間でリアルタイム観戦。そのままセレモニーを観て搭乗。今年のマリーンズの調子と自らのそれが同期していることを確信。

 

10月

ライトハウス出張所として千葉市浜野の美容室ミューテさんで常設棚を開始。店主さんが前にいた店舗時代からの付き合いで、もう10年近くなる。数年前に独立して、それからも僕は店主さんのとこに切ってもらいに行っていて、そんな縁から棚を置かせてもらえることになった。浜野には書店がない。千葉や蘇我に出るか、近くても隣駅(とはいえ外房線はそれなりに駅間隔がある)まで行く必要があり、チャレンジするのにぴったりだと思った。現状「売れている」とは決して言えるものではなく、今後の課題の一つである。幕張で準備している「店舗」がオープンしたらもう少し自由にやれるので(在庫の移動が可能になるなど、選書の幅が広がる)、とにかくいまは「この美容室には購入可能な本が置いてある」ということを、美容室の常連さんに知ってもらう期間と捉えている。

なお、我らがマリーンズは井口さんが監督に就任。伊東監督も本当にありがとう。お疲れ様でした。

 

11月

小屋のあれこれをはじめる。設計だったり、そもそもの畑の整地だったり。そのあたりの詳細は店舗ツイッター(@book_lighthouse)やHP(本屋lighthouse)などで。

まあとにかく進まないが、それでもようやっと整地作業が終わりを迎えつつある。伽鹿舎のWEB片隅での連載でもテキトーな経過報告をしていく予定なので、そちら(» 濁点遊撃隊 || WEB文藝誌 片隅-かたすみ- 伽鹿舎)も読んでもらえるとありがたやありがたやー。早ければ年明けに更新されるかと。

「志」のつく書店では本格的に外国文学、特に文庫の棚を担当しはじめる。久禮さんの『スリップの技法』も読み、その手法を一部取り入れながら試行錯誤の毎日を現在進行形で。ほんのちょっとは効果がではじめたと思いたいが、あがってくるスリップの大半がカズオイシグロ作品だったので、正確なところはよくわからない。

我らがマリーンズは台湾遠征で好結果を残す。

 

12月

イシグロが落ち着いてきたのに伴ってスリップも減少。まあまだまだ整地段階というか、そんなに早く効果が出てしまっても怖いというか。調子に乗らないためにもこれくらいがちょうどいいかと。とはいえ面白い買い方をしてくれる人や、高校生とかが買ってくれたりすると嬉しい。この前も柴田元幸訳の『ハックルベリー・フィンの冒けん』(研究社)をおそらく高校生くらいの女の子が買ってくれて、店長と舞い上がった。3000円くらいする単行本だよ?また来て欲しい。絶対に後悔させない作品を揃えた棚を作っておくから。

また、店長と共作で「dystopiaフェア」もスタートさせた。そうそう、いま思い出しましたけど、4月の不忍一箱古本市で「dystopia books」の屋号でヒトハコデビューしまして、しかも不忍くん賞までもらってしまっていたのでした(やはり記憶が抹消されている)。翌日配属発表で天国から地獄でしたが。ははっ。

とにかくそれを屋号だけ引き継ぐ形ですが(選書イメージは変えました)、実店舗しかもふつうのチェーンで展開するという男前ぶりを店長が見せつけてくれたことにまずは感謝です。ヒトハコの時は「ディストピアの支配者が禁書・焚書にしたくなる本=これを読むとディストピア(=支配者にとってのユートピア)が打破されてしまう本」というテーマで、それなりに「やわらかい」イメージも持ち合わせていた(つもりの)ものでした。今回はもっと直球に、「ディストピアが成立する過程(順序は一定ではないけど)をテーマ別に提示し、そのテーマごとに選書した本を並べることで、現実世界がディストピア化しつつある(というかもうなっている)ということを可視化する」ことを目指しました。つまりかなり「重い」です。それでも、少ないながらもレジに本を持って来てくれる人がちゃんといて、「いいフェアだね」と言ってくれた人もいるようです。うれしい。そしてそういうお客様をこれまでつなぎとめていた店長にリスペクトを。もちろん「こういう本を読む人=良いお客様」というわけではないけど。そこは間違えちゃいけない。くだらない本も「良い本」だからね。

また、上旬にはこだまさんの新刊『ここは、おしまいの地』が刊行されるとの報。そのちょっと前にも『ちんぽ』の実写・漫画化決定の報があり、2017年はちんぽにはじまりちんぽに終わる、字面的には最低だが内実はステキオブザワールドな年となった。

なお、我らがマリーンズは外国人の補強をはじめた。最強コーチ陣も結成され、来季に期待のもてる締めくくりとなった。

あとタイに行った。不躾なわんころだらけで最高だった。

 

 

 

とにかく予想外の連続だった。マリーンズの惨敗はもちろんのこと、まさか自分が「なぜ新卒はすぐに会社を辞めるのか」的な存在になるとは思っていなかった。だって同期の中で一番やる気に満ち溢れている自信があったから。だからこそやめたのだけど。こういうテーマの本を書く人にはこの実例も取り上げて欲しい。

 

そしてあれよあれよと、気づいたら畑を整地している。しかもそこで本屋を「建てよう」としているのだ。真っ当ではない。でも、真っ当なことをしていたらやっていけないと、言い聞かせて生きている。出版業界としても、そして自分自身の生き方としても。いや、正確には真っ当なことと「されている」こと、か。

 

来年は今年以上に覚悟の年となる。とんでもない事件が起こらない限り(得てして起こってしまうのだけど)、来年のうちにはライトハウスも開業する。そうなったら今まで以上にフル回転となる、頭が。身体はゆるりと。

 

そして「志」のつく書店の方でも、大きな展開が待ち受けている。こだまさんの新刊。思い切って30冊、事前指定を頼んだ。減数されそうだけど。

ここまで大きな数(書店員歴は短いし、店の規模も小さいので)の注文ははじめてだし、正直怖さもある。売れ残ったら返品すりゃいいじゃん、という話ではないからだ。こちらがそういう気持ちでやっていたら、この負のスパイラル、つまり書店は減数を見越して多めに注文する、版元と取次はそれを見越して減数する、本当に「その数が欲しいと思っている書店」も減数される、または減数されずに思ったよりも多く来ちゃう(から欲しい店舗に配本されない)、などといった現象がなくならない。あるいはくだらない「騙し合い」と言った方がいいか。誰が得するんだよこれ。一番悲しむのは読者だし。

とにかく僕は30を売り切るつもりで「30冊でお願いします」と頼んだ。希望数ですがよろしいですか?と聞かれたので、「はい、希望数です」と答えた。たぶん両者の間で「希望」の意味は食い違っている。怒りは生まれて来たけど、現状どうすることもできない。僕も「結果」を残していないから。

だからとにかく入荷して来た数は全部売り切るようにする。できるだけ早く。そしてすぐに追加を頼む。重版中です、返品待ち保留です、などの返答がきたときこそ、怒りをぶつけるときだ。「だから30欲しいと言ったんだ」と。その小さな積み重ねが、この「頭の悪い駆け引き」を終わらせる道だと思う。近道かどうかは知らんけど。だからどうにかして売る。いや、読んでもらう。

こだまさん本人にもいろいろと力を貸してもらっている。あたしはしあわせものすぎる。だからこそ、責任を持って読者に届けたい。

ていうか、今年一番の予想外はこれである。年初にはただの「著者−読者」の関係だったのが、いまや共闘する関係になっている。ついったらんど、とんでもない世界である。

 

 

 

 

2018年はどんな「予想外」が待ち受けているのか。予想外を結果オーライにするのが人生の醍醐味である。いまいいこと言った風な顔をしているので、いいこと聞いた風な顔をしてください。

なお、マリーンズに関しては期待通りになって欲しい。もちろん優勝。

 

 

テーマ あつい

誰でも本屋システム、今回のテーマは

 

あつい

 

です。

 

今年の夏は暑くないじゃあないか。うるさい!

暑いと思えば暑いんだ!あついあつい!!

しゅうぞーーーーーーーーーーーーーーう!!!!!

 

と、なってしまうことを見越して

今回のこの「あつい」本特集、手を打ってあります。

 

「あつい」

こちらの言葉の漢字変換は各自おまかせでお願いしようと思います。

つまり、「暑い」「熱い」「厚い」「篤い」などなど、皆様ご自由に選んでいただく方式になっております。

もはやご自由に「創って」いただいても結構です。

「あつい」と書いて「◯◯」と読む、その心は?的な大喜利に発展させていただくのも大歓迎。

あるいはポンコツPCのヘッポコ予測変換で素敵な「あつい」と運命の出逢いを果たしていただくのも趣深いかと存じます。

 

 

ということで今回の軸本

というより、「厚い」代表のご紹介です(各意味ごとに集めて決闘させようかな)。

 

ナショナリズムの由来』

大澤真幸(講談社)

www.hanmoto.com

 

こちらは僕が修論を書いた際に大変参考にさせていただいた本でございますが、とにかく厚い(箱入りなんです)。下は自前の画像ですがご参照ください。

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1枚目→隣には修論で主に扱ったG・オーウェルの『1984年』があります。その他の本と比べても破格の厚さであることがわかります

2枚目→本以外のものと比較してみました。ギタースタンドが軋みました。

3枚目→書見台にセットしてみましたが明らかにおかしいです。たぶん使い方が間違ってます。

 

ちなみにスリーサイズは上から

D: 6.0

W: 15.5

H: 22.0

となっております。豊満なボディー。もはやファビュラスさまで感じます。

 

僕はこの本と、修論執筆時にはとても多くの時間を共に過ごしました。全877ページ。朝から晩まで、寝るときも枕として使ってしまうほど、親密な仲になったのです。

 

それはまるで中学生の修学旅行の夜のような日々でした。

 

セキグチ「『ナショナリズムの由来』は好きな人とかいないの?」

ナショナリズムの由来』「んー、今はいないかな。あんまり私から積極的にいけないっていうか、いかない方がいいみたいだし」

セ「まじかー、箱入り娘かよー」

『ナ』「あ、でもなんか最近すごい目線が合うっていうか、私のこと好きなんじゃないかな?って感じる人はいるの」

セ「激アツやん。誰よ。秘密にするからさ」

『ナ』「安◯晋◯くん。あと他にも隣のクラスとか違う学校の人からも視線を感じることが多いかな」

セ「ん?」

 

 

笑えない冗談はさておき。

 

ものすごい厚くものすごい密度のある本なので、読むのはなかなかに骨が折れますが(そしてお金も吹っ飛ぶ。見た目通り辞書のような値段)、そのぶん得るものも多い本となっております。

 

それでも読む(買う)勇気がないお客様は、まずはお部屋ででんぐり返しを30回ほど連続で行ない、回転体となってしまった自らを壁におでこを強打することで止めていただいてからもう一度この『ナショナリズムの由来』について考えていただくと、気づいた時には財布から樋口さんが1名ほどお逃げになっておりますので、だったら野口さんも一緒に行かせてあげないと一葉ちゃん寂しがっちゃうわね、旅は道連れ世は情けよね、ほら、お行きなさい、というように、もう一冊違う本をお持ちになってこの夏をお過ごしください。

 

 

 

それでは、皆様の「あつい」本をお待ちしております。

投稿の仕方などについては下記エントリーをご参照ください。

lighthouse 使い方 - Notes on the edge of paper

 

誰でも本屋 テーマ「おんなのこ」

最終兵器彼女

高橋しん(小学館)

世界の終わり、そして恋。ひとが最も輝きそして最も醜くなるのは、このふたつの瞬間なのかもしれない。

軸本

https://honto.jp/netstore/pd-book_02099207.html

 

獣の奏者

上橋菜穂子(講談社)

少女エリンが運命と対峙し、王獣や人との関わりによって少しずつ変わっていく(変わらざるを得ない)お話。中高生のときに読みたかったけど、実は大人にこそ読まれるべきなのかも。

http://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784062764469

 

いっさいはん

minchi(岩崎書店)

Twitter発のヒット本ということで、この企画が成功して欲しいという願いも込めて。一歳半の女の子がとる謎行動の数々を、ひたすら眺めて楽しむ絵本。今ならお近くの書店でまだ展開しているかもしれません。

http://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784265830398

 

本屋さんのダイアナ

柚木麻子(新潮社)

実は以前静岡書店大賞にもなった強く優しく、そして日々葛藤しながらも生きていく女の子達の姿がガツンと伝わってくる力強い作品です。人は何度だって生まれ変われるし立ち上がれる事を教えてくれた大切な作品です。

http://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784101202426

 

小春日和 インディアンサマー

金井美恵子(河出書房新社)

女の子でいるのがどうしょうもなく面倒くさいと思っていた頃に読みました。
こんな女の子なら、女の子でいるのも悪くないと思ったような。

https://honto.jp/netstore/pd-book_01673879.html

 

こちらあみ子

今村夏子(筑摩書房)

おんなのこ…で思い出したのはあみ子だった。
無知故に無邪気で無垢な少女。
どんなに世間とズレていってもあみ子は何処までもあみ子のまま其処に在って。
彼女が気付かぬ淋しさが切なく胸を刺す。

http://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784480431820

 

クレヨン王国 月のたまご

福永令三 作/三木由記子 絵(講談社)

ばかでかわいくて愛する人のために勇気を振り絞れ、自分の価値観をしっかり持ったまゆみ。幼い頃の憧れでした。いつの間にか自分のほうがずっと年上になってしまいましたが、私の中で彼女は永遠に「女の子」で「お姉さん」です。

http://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784061486751

 

大草原の小さな家

ローラ・インガルス・ワイルダー(講談社)

大自然の中、家族と共に懸命に、そして朗らかに生きていくローラの姿は幼い頃の憧れでした。ローラたち四姉妹の仲良しのやり取りや、家族で祝うクリスマスなどのイベントがとても魅力的に描かれていて楽しげです。

https://honto.jp/netstore/pd-book_25417048.html

 

赤い実はじけた

名木田恵子(PHP研究所)

表題作は国語の教科書で読みました。
僕は未だに恋愛がよくわからなくて、だけど、「赤い実がはじける」という表現の向こうに、人を思う気持ちがパッと色づく様が見えた気がしたのです。

https://honto.jp/netstore/pd-book_01675516.html

 

下妻物語

嶽本野ばら(小学館)

女の友情をバカにされてイラッとした時はいつもこの二人を思い出す。
馴れ合いじゃなく、同一化を強制するでもなく、必要な時に心を寄せる。
友情という上辺だけの言葉に縛られず、相手が大切だという想いだけで自然と肩を並べられる二人の関係は、私の永遠のお手本。

http://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784094080230

 

海の島 ステフィとネッリの物語

アニカ・トール 著/菱木晃子 訳(新宿書房)

ユダヤ人姉妹がナチスの迫害を逃れてウィーンからスウェーデンへやってきた。読みごたえ十分の4部作、これが1冊目。うちの娘たちが読めるようになる日まで新刊書店で買えますように。

https://honto.jp/netstore/pd-book_02681702.html

 

塩を食う女たち

藤本和子(晶文社)

目が海になり心臓から流血とまらなくなるけど、なぜ自分は女に生まれたんだろうって一瞬でも考えたことのあるすべての女の子に読んでほしいな。臆病者だけが差別主義者になる。ひよるな、あなたは充分つよいって勇気をくれる本。読んだらつよくなる。

https://honto.jp/netstore/pd-book_00232578.html

 

とっておきの美智子さま

渡邊みどり 監修/マガジンハウス 編集(マガジンハウス)

お洋服が余りにも美しくて可愛い。過剰なものは何ひとつ無いのに存在感はあるーーグランクリュ・クラッセ
そういうものは、着る者にも同じことを要求する。
力はあってもそれに頼って語らない自然体の、最強エレガンス。

http://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784838728466

 

 

「こちら側」と「あちら側」

本が届かないのではなく、本「に」届かない人がいる。

ということをTwitterで書きました。そのことについてまとまらないなりに少し書いておこうと思います。

 

 

先日からスタートさせた「誰でも本屋_おんなのこ」で僕が軸本にした、高橋しん最終兵器彼女』を改めて読み直し、さらに同氏の『雪にツバサ』も読み直しました。

ざっくり言えば、前者は「主人公の女の子(17歳)が最終兵器に改造され終わりゆく世界の中で戦う」物語であり、後者は「母子家庭育ちの男の子(15歳)と喋ることのできない女の子(17歳)」の物語です。

 

後者『雪にツバサ』をもう少し具体的に説明します。

舞台は雪国のど田舎。古い温泉街で、違法風俗店が存在し(しかもそれが産業を支えてもいる)、ヤクザと警察が手を握り合っているおかげで平和が維持されているようなところ。

ツバサはほんのちょっとした超能力が使える男の子で、雪が不良グループにレイプされているところに遭遇。なぜか雪の「声」(つまり雪の思考)が読み取れてしまいます。そういう始まり。

思い切りネタバレしますが、雪は幼少期からの性被害(しかも父親からの)によって声を失っています(悲しいこと怖いことがあるとその記憶も消えます)。そしてそのことに気づいた祖父に引き取られます。ただ、残念ながら逃げた先の街も前述の通り危険な街なのですが。

 

ここまで書いたところでこの作品に対して「後ろ向きな」嫌悪感を抱いた方も多いでしょうが、そのような人にこそここからを読んでいただきたいです。

 

この作品(そして『最終兵器彼女』を筆頭に作者の他の作品)に対する批判は多いようです。「弱い女の子がレイプされることに対する作者の性的嗜好」みたいなものが特に。

ですがその批判が正しいかどうかはここでは問題ではなく、僕がここで言いたいことは、

 

「作中で描かれた人たち(に近いような生活を送っている人たち)が確かに存在している(らしい)」

 

ということです。(かっこによる保留がある理由は後述します)

 

冒頭の「本に届かない人」を思い出してください。あえてここでは次のように言い換えて遠回りをしますが、よろしければついてきてください。

 

「こちら側にいる人」と「あちら側にいる人」

 

と言い換えます。

「本に届かない人」=「あちら側にいる人」というのを頭の片隅に入れてお読みください。

 

僕たちは「こちら側」の存在です。例えばまず本を読める。こうしてネットにもつながる。そして、

「自分よりも酷い(豊かな)生活を送っている人がいること」を「知っている」

 

「こちら側」とは、「知っている」(=知る権利を有している)ことです。対して「あちら側」とは、「知らない」(=知る権利を有さない)ことと言えるでしょう。

 

本に関わることに的を絞りましょう。僕たち「こちら側」の人間は、作品=フィクション(あるいはノンフィクション)の中で描かれることを通して「世界」を知ることができます。『雪にツバサ』でいえば、「親から性的虐待を受けている人がいること」をフィクションを通して知る、あるいは感じることになります。

これに対しての「リアリティがない(=大袈裟すぎる、過激)」などといった批判、そしてもちろん前述の批判(=作者の性的嗜好云々)は、少なくともこの文脈からは的外れとなります。肝要なのは「絶望的な環境が存在すること」が理解(想像)できるかどうかだからです。

 

しかし残念ながら、こんな殊勝なことを書いている僕ですら「こちら側」の人間であり、「あちら側」の人たちのことを正確に知っているわけではありません。より正確にいうならば、「本を通して描かれた彼/彼女らのことは知っている」ということであり、故に前述のかっこによる保留付きの文章、

 

「作中で描かれた人たち(に近いような生活を送っている人たち)が確かに存在している(らしい)」

 

になるのです。あくまでも僕(とこれを読んでいるあなた)は「こちら側」の人間なんです。「あちら側」の存在は基本的には忘れていて、ふとした時にその存在を思い知らされ(テレビとか本とかによって)、あるいは覚悟を持って自ら知りに行くことでしかその存在は僕(たち)の中には生まれてこない。

 

だから僕ら(こちら側の人間)は、本を読むことでしか「あちら側」を知り(想像し)得ないということ。これがひとまずの結論。

 

だけど大事なのはここから。「あちら側」の話。長いしわかりにくかったけど最後までついてきてください。

 

想像しやすいように世界に目を向けてみましょう。例えばシリア。文字通り生きるか死ぬかの毎日。文字で説明できるような世界ではない。そしてやはりここでも僕は「こちら側」の人間であり、その絶望的な状況を想像するしかできない、本を読んでも。

とにかく「絶望的な状況」に生きる人がいる(らしい)。そしてそういう人が実は日本にもたくさんいる(らしい)。例えば『雪にツバサ』で描かれたような「クソど田舎」に。

 

また遠回りをします。ユートピアディストピア。前者は「最高の世界」、後者は「絶対に住みたくない世界」と考えてくれればいいです。これは僕にとっての両者の定義、あるいは関係性についての見解ですが、ユートピアディストピアは表裏一体、またはどちらかがなくなればどちらかもなくなるといった共依存的な関係にあると考えています。

つまり、僕らがユートピアを想像し、それを目指すとき、そこには「現実のディストピア」が必ず存在しないとならないのです。具体的に言うならば、毎日毎日残業だらけでしかも安月給のクソみたいな現実があるからこそ、残業なし高給取り(むしろ不労所得万歳)のようなユートピアを想像するわけです(ユートピア実現のための努力に発展するかはともかく)。

整理すると、

 

ユートピア実現のためには

ディストピア(=クソみたいな現実)を認識する必要がある

 

わけですが

③それ(=クソ現実)をディストピア(=改善すべき世界)だと思う

ためには比較対象が必要になります。つまりユートピア。少なくとも、「今の世界よりも良い世界があること」を知る必要があります。

 

 

さて、果たして「あちら側」の人はそれを知ることができる環境にあるのだろうか。

というより、そもそも「自分のいる世界がディストピアである」ということを感じることができるのだろうか。

 

 

知らない、否、「知ることができない」というのは、非常に残酷なことだ。

知ることができなければ、ユートピア実現を目指して生きることができない。あるいはユートピアではなくても、少なくともディストピアではない世界を目指すことができない。

ユートピアを描けなければユートピアは実現しない。あるいはディストピアを認識できなければディストピアを脱することはできない。

そのためには自らの状況を知ることと、外の世界を知ることの両方が必要になる。

 

ユートピア/ディストピアの感じ方は相対的なもので、年収5億の人間だってそれをディストピアと感じてより一層の高みを目指すこともあるし、年収200万でもユートピアと感じる人もいる(ちなみに「こちら側」と「あちら側」も相対的なもので、僕らも「あちら側」になりうる、とても簡単に。例えば国家機密とか。気づいたら戦争が始まってるなんてことがあるかもしれない。『最終兵器彼女』の世界はまさにそれ)。

だけど、本物のディストピア、絶対的なディストピアにいる人、つまり「あちら側」の人間には、ユートピア/ディストピアという概念が存在しない。そこにあるのは彼/彼女の生きるその世界「そのもの」だけだ。そこに「あったらいいな」の想像の世界はない。そして残酷なことに、「これより酷い世界がある」という想像もできない。そこにあるのはただただ現実のみだ。改善の必要を感じ(られ)ないディストピアが。

 

知ること、それはすなわち抵抗する権利を得るということだ。

現実に抵抗し、幸せを得ようともがく権利を得る。

その権利を奪われている人が、確かにこの世界には存在している(らしい)。

 

 

本を読むことは、世界を知ることであり、ありうるかもしれない世界を想像することである。そこに書かれた(描かれた)ことが真実であろうとなかろうと、僕ら「こちら側」の人間は世界を知る、想像する。自分のいる世界より幸せな世界があることを知り、羨む。自分のいる世界の方がマシな世界だと知り、安心する。

『雪にツバサ』というフィクションを通して世界を知る。あるいは『夫のちんぽが入らない』や『シリアからの叫び』というノンフィクションを通して。

僕ら「こちら側」の人間(=本を読める人間)は、残酷な世界があることを知って何かをしたいと思う。そこに書かれる(描かれる)「あちら側」のことを思い、何かを考える。

 

 

知る権利を有しているということは、より良い世界を目指す権利(クソみたいな世界を脱する権利)をも有するということになる。

「あちら側」=「本に届かない」人というのは、その権利を奪われている人と言える。

ユートピア(=ありうるかもしれない想像の世界)を目指す権利、またはディストピア(=絶望的な現実)に抵抗する権利。

現実を認識することも、可能性の世界を想像することもできない。

 

 

抵抗のための「知」

ふざけんじゃねーよ、という叫びをあげるための「知」

自分は不幸だ、もっと幸せになりたい、ということを世界に対して表明するための「知」

 

 

 

なんなんだこの世界は

 

そう言える、そしてその思いをネットを通して世界に発信できる僕はやはり

「こちら側」の人間である。

 

そして僕がこのようなことを考え世界に発信していることを、「あちら側」の人間は知ることができない。

 

 

 

 

テーマ おんなのこ

誰でも本屋2回目のテーマとなります。

 

今回は「おんなのこ」

 

 

 

ベリーキュートな女の子として生まれたい。

とはいえそれほど積極的ではない性格だったためか教室内では目立つこともなくもちろん特段モテるわけでもなかった小学校・中学校生活を送りたい。

そして本当は両思いだったのに片思いだとばかり思い込んでたがために発展しなかった淡い恋の思い出を高校時代に作りたい。

後悔ばかりが残るこれまでの人生を振り切るが如く大学で遊びまくりたい、そして数人の男に癒えることのない深い傷を追わせたい。

最終的にはクソほど優しい男に出会って思いっきり甘やかされながら幸せな家庭を築きたい。

そういうひとに、わたしはなりたい。

そんな来世のために現世は徳を積むのだ。

本なんかより徳を積みたい。積み重ねた徳の下敷きになって死ねば叶うだろうか。

 

これまでに積んだ徳の量ではきっとベリーキュートな女の子として生まれ、それほど積極的な性格ではなかったため兄弟姉妹間のご飯戦争に勝てない幼少期を送り、片思いとかよくわからないうちに避妊手術をされ、行くあてのない欲求を振り切るが如くボール遊びに全力を傾ける思春期を過ごし、クソほど優しい飼い主に毎日散歩に連れてってもらうコーギーくらいにしかなれない。いや、結構幸せだなこれ。できればたくさんおやつをもらって犬か魚雷かあるいは太鼓の達人かわからないくらいにまるまる太らせてもらいたい。

 

貯めた途端にしょうもないものに使ってしまうポイントカードのような僕の徳の話はおいといて、本題に戻ります。

 

「おんなのこ」というテーマで僕が選ぶ本はこちら

 

honto.jp

 

最終兵器彼女高橋しん(小学館)

 

弱気でドジな女の子が最終兵器になる話です。正直意味がわかりませんがその通りなので仕方がない。この説明の意味のわからなさは、作中世界で生きる人々が世界に対して感じる意味のわからなさ(理不尽さ)と重なるのかもしれません。

とにかく主人公が可愛くてカッコよくて切なくてアホでドジで可愛くてカッコいいんです。幼少期からサッカーに明け暮れたためいわゆる中2病を発症することなく、その後高1でサッカーを辞めた僕は高2病真っ只中。中2のうちからコツコツ溜めてはその都度使うようなことができなかった僕は、溜まりに溜まった思春期ポイントをここで全額使い切ったのでした。

この物語はいわゆる終末もの、セカイ系ディストピアものなどと呼ばれるやつです。そんな世界の中で可愛い女の子が戦っている(そして恋をしている)と。そんな刺激の強いものに、ポイント有効期限切れが迫っているメールを受け取った僕が反応しないわけもなく、そしてあまりの衝撃にその後の人生にまで影響を与えてしまったのではないかと推測しています(修論テーマはディストピア)。

 

世界が終わる(かもしれない)ということと、恋。

この思春期2大キーワードを出されては、行くあてのない様々な欲求や不満みたいなものを僕が全力で差し向けてしまうのも致し方ない。貯まったポイントで「身につけてるだけで腹筋が鍛えられるやつ」が買えるとなったら、そりゃ奥さん買いでしょうよ。

思いっきり魂(腹の肉)を揺さぶられてほしい。

 

 

本当にどうでもいい話でここまできてしまったけど、今回のテーマもいつも通り拡大解釈して考えてもらいたいです。

「おんなのこ」に年齢も国籍も関係ありませんし、可愛いとかかっこいいとかに縛られるものでもありません。対潜水艦用魚雷のようになってしまったコーギーだっておんなのこだ!服屋に行くとレディースものの方がデザイン的に気に入ってしまう僕もおんなのこだ!来世は真木よう子になりたい!!

 

 

 

誰でも本屋「光」

海を照らす光 

M・L・ステッドマン/古屋美登里 訳(早川書房)

http://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784151200885

 

 

暗い時代の人々 

森まゆみ(亜紀書房)

http://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784750514994

ついに再び暗い時代へ突入した日本。だがかつての暗黒の時代も光が全て消え去った訳ではない。灯された微かな、しかし輝かしい光を放った人々を私達が忘れない限り、まだ希望は…
「暗い時代」を認識せよ。全てはここからだ。

 

 

裸足で逃げる:沖縄の夜の街の少女たち

上間陽子(太田出版)

http://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784778315603

光あれば影もある。注目の「質的調査」に基づく社会学の成果。彼女(/彼)らに人生はこの道しかないのだろうか。この著者にしか描き得ない日本の現実。 ここに「あったかもしれない私」を想像することから始めよう。

 

 

踊る光

トンケ・ドラフト/西村由美 訳/宮越暁子 絵(岩波書店)

http://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784001156669

光をリズムに溶解させながら、それは幻惑剤なのだと主張しているかのように、上質な浮遊感と読後感を提供してくれる短編集です。そしてファンタジックな世界観とは対照的に、作者の創作人生の如き「暗さ」をも際立たせる、正に光の書です。

 

 

オーデュボンの祈り

伊坂幸太郎(新潮社)

http://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784101250212
強すぎる光は暴力にもなります。コンビニは夜を明るくするし人を殺せる。けれど朝の光で気持ち良く目ざめることもある。そんな両極を人間も持っているのではないでしょうか。残虐さの描写の裏に、人間への希望と愛が詰まった小説だと思います。

 

 

これから「街の本屋」と「小さな版元」が生き残るためには、を考える(後編)

タイトルにある本編に入る前に、これから出版業界がどうなっていくのかという予想をしておきます。本編の前提ですね。もちろん、予想にすぎませんが。

なんてったって、「実績のない」若造のいうことですからね。

 

 

取次さんがこのままの姿勢でやっていくと、二極化が進むと思います。

つまり

①大手版元+大手取次+大型(都心部)書店の組み合わせ

②小版元+(中小取次)+小型(地方)書店の組み合わせ

です。

 

②には独立系の書店や、直取引のみの書店、メイン商材が本ではない店舗なども含みます。要するに最近勢力を増しつつあるタイプの書店ですね。

小版元というのもそうですね。例えばトランスビュー扱いの版元や、ミシマ社のような直取引メインの版元だと考えてください。あとは神田村や地方小、ツバメ出版流通などの中小取次を介する版元です。

 

つまり、①は既存の取次(流通)システムで特に差し迫った対応をとることなく生き残っていけるであろう集団で、②は既存のシステムからは弾き出されてしまった(あるいは見切りをつけて自ら離れた)集団で、とにかく必死に頭をひねって策を練った結果生き残れる集団です。

前者には、とにかくそちらのやり方で生き残ってもらいましょう。もちろん否定はしません。様々なタイプの版元・取次・書店が、様々な手段によって生き残っていくことが一番重要なことなので。正解はひとつじゃないし、それこそが多様性の担保につながるからです。こうすべきだ!と決めた途端に終わりが始まると、僕は思っています。

これから考えるのは、後者がいかに生き残っていくかです。

 

 

端的にいってしまえば、版元と書店が協力していこうということですし、もっといえば製版一体型が究極の理想になるかもしれません。「作って売る」の全部に関わる、ということ。

 

先日「走る本屋さん 高久書店」の高木さん(普段は静岡の戸田書店西郷店の店長)のお話を聴く機会がありまして、書店のない地域、書店空白地域問題の深刻さを再認識しました。そしてそういった地域にいる人たちには本に対する強い欲望があることも。読みたいんですよ、本を。でもないから諦めてしまう、あるいはネットで買う、それほど思いの強くない人はまあいいやってなってしまう。

でも、ちゃんと熱意を持って選書して、熱意を持って本を届けに行けば、きちんとその思いは通じるんですよ。そういったことを、高木さんのお話から受け取ることができました。

 

そしてもうひとつ、伽鹿舎という出版社をご存知でしょうか。熊本のいち版元なんですが、非営利(週末)出版社として、本業を別にもつ人たちが「九州を本の島に」という理念のもとに本を作っています。そしてなんといっても、九州限定配本という制度。基本的に、九州の書店にしか配本しないんです。初版分を売り切って重版したら(つまり九州にはある程度行き渡ったら)全国解禁、先日『幸福はどこにある』が解禁第一弾としてめでたく全国デビューしました。

 

(せっかくなのでここまで読んでくださった方は二者とも調べてみてください。リンクとかはあえて貼りませんので)

 

縁あってこういった方達と巡り会えて(特に後者は濃い付き合いになりそうですが)、ここからヒントが生まれました。

 

最初に戻って、なんで取次が地方や小さい書店を避けたがるかってことを考えると、結局物流コストの問題なんですよね。

じゃあ運ばなけりゃいいじゃん、って彼らは思っているようですが、僕もそれは同意です。180度意味は違いますが。

 

まず版元側から考えます。

ひとつは本を「地産地消」してしまおう、という案。あくまでもひとつの案で、絶対的な方法ではないですが。伽鹿舎が九州で作って九州で売っているように、これが各地域で生まれ始めたら面白いように思えます。

現状伽鹿舎は長野の藤原印刷さんと素敵な関係を築いていますが、九州の印刷・製本会社と同じようにできたらいいですよね(藤原印刷さんの九州支店ができるのもいいですね。笑)

地域の版元が本を編み、地域の印刷・製本所がカタチにして、地域の取次が届け、地域の本屋が売る。こういう仕組みが各地にできたら、大きな仕組みではないから大きな利益にはならないだろうけど、素敵な感じがしませんか?

 

次に書店側。というか広い意味での「本屋」、本を売る人。

普通に取次から満足な配本がある書店はこれまで通りで大丈夫です。なのでこれからの話はそうではない書店の話。

可能性のある道のひとつは、「心意気のある」版元をメインに取引をする、ということ。「心意気」とはつまり、「うちの本を意志を持って売ってくれるお店であればどこにあっても送りますよ」というもの。一般化するのは違う気もしますが、魂込めて本を作っている版元さんはきっと魂込めて売ってくれる書店さんには魂込めて本を送ってくれますよ、ということです。書店の規模とか、売上高とか、距離とかはどうでもいい。最高の本を作ったという自信があるから、とにかく置いてくれ。そういう版元さんですよ、きっと。たぶん。

この両者の間に、もちろん取次が入った方が手間が省けるのかもしれません。でも大手取次にはそういうコスト的な余裕と心意気はなさそうなので、悩みどころですよね。

 

で、ここからは興味があればやって欲しいことであり、個人的にもやってみたいことなんですけど。

 

移動(出張)本屋を、これまでの要素を取り入れてやってみて欲しい(みたい)んですよね。

やり方のイメージはこんな感じ。

 

・出店地域は書店空白地域。

・本の仕入先は数パターン(できれば組み合わせたい=立場を超えて協力したい)

 ①出店地近隣の書店の在庫を使う(利益の一部を手数料としていただく)

 ②地域関係なく協力してくれる版元から委託(同様に一部手数料)

 ③もはや著者本人でもいいのでは?

 など

・交通費などの必要経費は、協力料(宣伝料)として①②③から出してもらう

 

①は書店の出張所的なイメージになるかと。これは高木さんのように書店員が自店舗でやってもいいでしょうし、僕みたいなことを考えてるひとに任せてもいいと思います。その地域に版元さんがあれば声をかけてもいいと思います。著者が住んでたらもっといいですね。

②は、版元主導の本屋という可能性を含んでいます。というかそれがメインです。製版一体。自社の本を売るのはもちろんですが、他社の本も一緒に売って欲しいですね。他社本は販売手数料として利益の一部をいただく、という形で。

 

中小版元の苦しい理由は、結局のところ「存在を知ってもらえない」ことにあると思うんですよ。大部数刷れないから書店に行き届かない。入荷しても棚差しだから見つけてもらいにくい。どんなにいい本でも。

対して街の本屋は、とにかく本が入ってこないということになるかと。

そしたら組むしかないですよね。ということなんですが。

 

移動(出張)本屋の最大のメリットは、「存在を知ってもらえる」ということです。書店の存在、版元の存在、そして本の存在です(協力料=宣伝料とはそういうことです)。

知ってもらえさえすれば、それが「いいもの」であれば手にとってもらえるんです。キンコン西野さんの『プペル』のように。無料公開しても売れるんです。

いい版元であれば、いい本屋であれば、そしていい本であれば、その存在に気づいてもらうことさえすれば結果は出るはずなんです。

でもそれが、特に地方では難しい(都心部や大型書店では逆に「情報がありすぎて気づいてもらえない」ということにもなってますが)。

でも地方だからこそ、街の本屋(版元)だからこそ、できることがあるように思えます。

 

僕がこれまでずっと言い続けている、「本屋がなくなっているのなら、みんなが本屋になればいいじゃないか」というのはここに繋がります。地方こそ、書店のない地域こそ、みんなが本屋になれる仕組みが必要なんです。書店さん、版元さんの協力さえあればできると思います。今の僕のように書店員や版元人といった肩書き・立場のない人でも、熱意さえあれば本が売れる仕組みを。そうすれば、既存の取次システムがなくても生き残っていけると思います。

 

大きい仕組みの中に飲み込まれていないからこそ、できることがあるように思います。小回りとか、融通とか、そういう言葉で表される何かが。もっと純粋に、「いい本を作りたい」「いい本を届けたい」「いい本を読んでもらいたい」「いい本を読みたい」という思いだけを追求してやっていける、そういう仕組みが構築できるように思えます。

 

それは、小さいからこそできることだ

 

と記して、このまとまりのない長文をまとめたように思わせます。おわり。

これから「街の本屋」と「小さな版元」が生き残るためには、を考える(前編)

www.nikkei.com

先日のこちらの報を受けて、いま思っていることを書いておこうと思います。

日経の会員ではない人は申し訳ないですが、とにかく採算の取れない書店を閉店させるということです。

 

これをみて、これまで疑問だったというかうまく点と点が繋がっていなかったものが

悪い意味で線になってしまいました。もちろん推測の域を出ませんが。

 

それは、結論から言うと、「取次は、大型あるいは都心部などの、自分たちが効率よくコストをかけずに相手できる書店以外は潰したい」ということになります。悪意のある言い方をあえてしますが。

 

以前から、パターン配本や実績配本などと呼ばれる、書店のランクによって配本がされる仕組みに疑問を抱いていました。ランクとは、簡単に言えば売り上げの大きさです。それはお店全体の売り上げでもあり、細分化してジャンルごとや、さらに細かくして著者、などと、大きい区分けから小さい区分けまであります。

要するに、「この店は先月これだけ売ったからこれだけ」「この店はこのジャンルはこれまでにこれだけ売ったからこれだけ」「この店はこの著者の過去作をこれだけ売ったからこれだけ」配本しよう、ということです。大雑把には、ですが。

 

で、この仕組み。僕の直感が間違ってたら取次さんには申し訳ないんですが。

 

あんた(取次)が「なくなってほしい」と思っている書店には配本しなければ勝手に潰れる仕組みなのでは?

 

と思ったのです。この仕組みを知って、それでどうなるんだろうと考えたときに。たぶん一年くらい前。

 

つまりですね。過去の実績で配本されるということは、配本されない=実績を作るための本がない、ということになり、その連鎖(循環)が続くとまるで食物連鎖で水銀の濃度が高まっていくように、配本ランクが下がり売り上げが下がり、ありゃまー。となるわけです。

逆にいうと、配本されるところは実績を作るための本がきちんとあるわけで、それをある程度の量売ればまた実績が上がって、より配本されやすくなる、というわけです。そりゃもとから配本されやすい大型あるいは都心部の書店は、「結果として」あるいは「必然的に」、またはこれは考えたくないことですが「故意に」、優遇されて生き残っていくわけですね。

 

例えば

現在ツイッターで多くの書店員が応援している『水族カンパニー!』

www.hanmoto.com

この1巻の売れ行き次第で雑誌での連載再開が決まるということで、この本の面白さを知っている書店員さんが熱烈な応援ツイートをしています。

これが連載再開されて2巻が刊行されたときに(現実のものになってほしい...!!)、1巻のときはまったく気づいていなくて、そのタイミングで「展開したい!」と思った書店員さんがいたとして。果たしてそのお店にはどれだけ配本されるのでしょうか。地方のしかも小さい書店だった場合、注文をしない限り確実に配本されないでしょう。もしかしたら、注文しても満数入荷することはないかもしれません。最悪0です。

なぜかってそりゃ「実績がないから」ですよ。でもこれがもし、1巻の時点でバカ売れして(これからそうなってほしい...!!)、そのタイミングでこのお店が取次(版元)に注文をしても、配本(入荷)されない可能性もあるわけです。例えばこの小学館あるいはスピリッツの同系統の漫画の実績がない、著者の過去作の実績がない、などの理由で。というかそれ以前に、バズればバズるほど大型or都心部の書店に大量に配本され、地方or小さい書店には配本されにくいわけですから。

そりゃ次巻だって配本されませんよ。過去の実績によって決まるんですから。

 

でもその実績って、結局は「配本してもらえなければ作れない」んですよね。これって理不尽だし、原理的に「一度縮小し始めたら縮小し続ける」(またはその逆)ことになるのではないかと思うんです。一度でも失敗したら連鎖的に(漸次的に)ダメになっていくと。

もちろん書店の実力があれば実績は作れますし、挽回も可能なんですけど。

今回の「採算の取れないところから閉店させる」という方針と、日々感じていた取次の「大型・都心部優遇」の姿勢を併せて考えると

 

なんだ。結局取次は街の本屋なんて応援してないんじゃないか。というか、コスト(リスク)にしかならないから潰れてほしいと思ってるんですね。

 

と思ってしまったわけです。

 

 

現に、前回10冊配本の5冊売れ、そうなると今回は7冊配本の......え?なんで3冊しか配本されないの!?みたいなことも小さい書店だとあるようですし。

フェア展開したいから!と注文しても数冊入ってくればいいほう、みたいなのもあるようですし(書店が自発的に「売りたい」と思ったものくらい満数出荷しろよ、と毎回思っているのですが。そのくせいらないもんは大量に配本されるし)。

 

 

とにかく僕は、今回、「もう取次に頼っていてはだめなんだ」と、ついに本気で思ってしまったわけです。これまでは「このままじゃだめだけど、もしかしたら。それに取次にはなくなられたら困るし」くらいには思っていましたし、その思いで実際に入社もしましたしね。

 

これで晴れて、名実ともに取次から「離れた」ということになりました(月が変わって正式に退職となりました!!祝・無職!!)。

(配属希望書に「街の書店が復活する手助けがしたい」と書店営業で希望を出したら、出版業界と関係ない仕事をする会社に出向になったのも、なんだか納得がいってしまうのでした)

 

 

 

でもこれは、チャンスだと思っています。

取次に依存する体制から脱却して、地方の、小さな、街の本屋が逆襲するための。

あるいは同じように取次から見放されていた「弱小」版元の。

 

これからの大手取次は、同じように「大きな」ところにしか手は差し伸べてくれないように思えます。じゃああんたら抜きでやってやるよ、と。大きくて効率よくてコストがかからないほうのはそっちでしっかりやってくれ。そうじゃないほうはこっちがなんとかしてやるから、じゃあな、元気でやれよ。そういって別れを告げよう。

 

 

www.youtube.com

この名曲を思い出したので貼っておきます。

 

後編に続きます。

 

「ついで買い」というものについて

書店減少の対策としてよく掲げられるこの「ついで買い」というもの。

このテーマ、軸がしっかりしていないと意味がないのではないか、ということをつらつらと。

 

 

大きく分けてふたつ方向があると思うんです。

①「本を日常的には買わないひと」に「ついでに」買ってもらう

②「本を日常的に買うひと」に「ついでに」買ってもらう

 

もっと細分化してもいいと思います。

①ー1「本を日常的には買わないひと」に「本屋で」本を「ついでに」買ってもらう

①ー2「本を日常的には買わないひと」に「本屋ではない場所で」「ついでに本を」買ってもらう

①ー3「本を日常的には買わないひと」に「本屋で」「ついでに本ではないモノを」買ってもらう

②ー1「本を日常的に買うひと」に「本屋で」本を「ついでに」買ってもらう

②ー2「本を日常的に買うひと」に「本屋ではない場所で」「ついでに本を」買ってもらう

②ー3「本を日常的に買うひと」に「本屋で」「ついでに本ではないモノを」買ってもらう

 

まだあるでしょうがとりあえずここまでで。

 

これら細分化され得る「ついで買い」に対して、それぞれの店舗・取次・版元がどの「ついで」を狙っているのかを明確にしないといけないと思います。

 

ここからはよりいっそう個人的な感覚の話になりますが

僕がもし本好きの人間でなかったとすると、「とんでもないほどの魅力がなければ」本のついで買いなんかしません。

 

どういうことかというと

例えばショッピングモールに服を買いに行ったとして、服屋にとりあえず本が置いてあったとしましょう。

とんでもないほど魅力がなければ買いません。というより目線が行かない可能性の方が高い。

あるいは本屋の中に服が売っている場合でも同じではないでしょうか。僕が見に行くのはあくまでも服であって本ではない。

雑貨や文具でも同じ。結局彼らは「本ではないものを」見に、あるいは買いに来ている。そこに服(文具・雑貨)があるからお店に足を踏み入れたのであって、「本があるから」ではない。結果としてそこに「本があった」だけで、「本屋に行った」という見た目的な行為は同じでも、持つ意味合いは完全に異なる。

 

ショッピングモールというワードに沿って考えてみる。

「ついで買い」を目指した書店のつくりは縮小化されたショッピングモールと言ってもいい。

書店というショッピングモールの中に本のテナントや文具・雑貨のテナント、CD・DVDのテナントなどが入っている。さらにそれぞれ、本なら文庫・コミック・実用・人文・雑誌などというジャンルに分かれる(服屋がメンズ・レディース・キッズに分かれさらにその中でも世代や雰囲気、用途に分かれるのと同様)。

ひとは書店=モールの中を、目当てのものを目指して移動する。

 

そう考えると、「服」あるいは「赤ちゃん用品」をショッピングモールに買いに来たひとが、ついでに書店に寄るだろうか。という問いが生まれる。いや、疑問か。

本を日常的に買うひとならもちろん寄るだろう。じゃあそうではないひとは?

確かにそこに(ショッピングモールであれば)書店が、あるいは(書店であれば)本が存在している。でも彼らが求めているものが書店あるいは本ではない場合、それはただ「在る」だけで、それ以上の意味はないのではないか。

 

とすれば、「ついで買い」というものは非常にレベルの高い試みではないか、という答えが出る。少なくとも「本が目当てではないひと」「本を日常的には買わないひと」に「ついでに本を」買ってもらう、という場合には。

つまり、「とんでもないほど魅力的」でなければ本を手にとってもらえる可能性はないのではないか。

 

 

本を本気で売りたいのであれば、いまの多くの併設店は生ぬるい。本が売れないから「とりあえず」ほかの粗利のいいものを売っとけ、というようにしか見えない。そして「ついでに本を買ってもらえればラッキー」ぐらいに思っているのかもしれない。

 

残念ながらそれは完全に目論見違いだ。なんどもいうが、「ついでに」買ってもらうには「とんでもないほどの」惹きつける力がなければいけない。でも「とりあえず」置いているだけのモノにそんな力はない。正確には、「モノには力があっても、それをひとが生かせていない(どころか殺している)」ことになる。

そしてそういう生半可なお店は、本好きのひとには見限られる。だってつまんないもん。

そうやって中途半端な併設店は本好きには見限られ、そうではないひとには本を買ってもらえず、本以外の併設したモノは本職に負ける、という未来が待ち受けている。

 

「ついで買い」や併設店がすべて悪いというのではない。やるならちゃんと軸を持って、誰に対してアピールするのか、何を売りたいのか、そういうのを明確にして、「本気で」やらないといけない。そういうことが言いたいのです。

 

本好きをターゲットにするなら、キワッキワの棚を作って、その上で最上の「本以外のモノ」を置く。

本好き以外のひとをターゲットにするなら、最上の本以外のモノを丁寧にセレクトして、かつ「見た目だけで」惹きつけられるような力を持った本を置く。

(この観点からすると版元も努力が必要ですね。視界に一瞬入っただけで気になって手を伸ばしてしまうような装丁を考えないと)

 

 

まとまりもなければ明確な答えもないんですが

こんな感じです。

とりあえず、最初に提示した細分化のそれぞれに対する最善の体系・方法を考えていくしかないかと。わかんないけど。