「ついで買い」というものについて

書店減少の対策としてよく掲げられるこの「ついで買い」というもの。

このテーマ、軸がしっかりしていないと意味がないのではないか、ということをつらつらと。

 

 

大きく分けてふたつ方向があると思うんです。

①「本を日常的には買わないひと」に「ついでに」買ってもらう

②「本を日常的に買うひと」に「ついでに」買ってもらう

 

もっと細分化してもいいと思います。

①ー1「本を日常的には買わないひと」に「本屋で」本を「ついでに」買ってもらう

①ー2「本を日常的には買わないひと」に「本屋ではない場所で」「ついでに本を」買ってもらう

①ー3「本を日常的には買わないひと」に「本屋で」「ついでに本ではないモノを」買ってもらう

②ー1「本を日常的に買うひと」に「本屋で」本を「ついでに」買ってもらう

②ー2「本を日常的に買うひと」に「本屋ではない場所で」「ついでに本を」買ってもらう

②ー3「本を日常的に買うひと」に「本屋で」「ついでに本ではないモノを」買ってもらう

 

まだあるでしょうがとりあえずここまでで。

 

これら細分化され得る「ついで買い」に対して、それぞれの店舗・取次・版元がどの「ついで」を狙っているのかを明確にしないといけないと思います。

 

ここからはよりいっそう個人的な感覚の話になりますが

僕がもし本好きの人間でなかったとすると、「とんでもないほどの魅力がなければ」本のついで買いなんかしません。

 

どういうことかというと

例えばショッピングモールに服を買いに行ったとして、服屋にとりあえず本が置いてあったとしましょう。

とんでもないほど魅力がなければ買いません。というより目線が行かない可能性の方が高い。

あるいは本屋の中に服が売っている場合でも同じではないでしょうか。僕が見に行くのはあくまでも服であって本ではない。

雑貨や文具でも同じ。結局彼らは「本ではないものを」見に、あるいは買いに来ている。そこに服(文具・雑貨)があるからお店に足を踏み入れたのであって、「本があるから」ではない。結果としてそこに「本があった」だけで、「本屋に行った」という見た目的な行為は同じでも、持つ意味合いは完全に異なる。

 

ショッピングモールというワードに沿って考えてみる。

「ついで買い」を目指した書店のつくりは縮小化されたショッピングモールと言ってもいい。

書店というショッピングモールの中に本のテナントや文具・雑貨のテナント、CD・DVDのテナントなどが入っている。さらにそれぞれ、本なら文庫・コミック・実用・人文・雑誌などというジャンルに分かれる(服屋がメンズ・レディース・キッズに分かれさらにその中でも世代や雰囲気、用途に分かれるのと同様)。

ひとは書店=モールの中を、目当てのものを目指して移動する。

 

そう考えると、「服」あるいは「赤ちゃん用品」をショッピングモールに買いに来たひとが、ついでに書店に寄るだろうか。という問いが生まれる。いや、疑問か。

本を日常的に買うひとならもちろん寄るだろう。じゃあそうではないひとは?

確かにそこに(ショッピングモールであれば)書店が、あるいは(書店であれば)本が存在している。でも彼らが求めているものが書店あるいは本ではない場合、それはただ「在る」だけで、それ以上の意味はないのではないか。

 

とすれば、「ついで買い」というものは非常にレベルの高い試みではないか、という答えが出る。少なくとも「本が目当てではないひと」「本を日常的には買わないひと」に「ついでに本を」買ってもらう、という場合には。

つまり、「とんでもないほど魅力的」でなければ本を手にとってもらえる可能性はないのではないか。

 

 

本を本気で売りたいのであれば、いまの多くの併設店は生ぬるい。本が売れないから「とりあえず」ほかの粗利のいいものを売っとけ、というようにしか見えない。そして「ついでに本を買ってもらえればラッキー」ぐらいに思っているのかもしれない。

 

残念ながらそれは完全に目論見違いだ。なんどもいうが、「ついでに」買ってもらうには「とんでもないほどの」惹きつける力がなければいけない。でも「とりあえず」置いているだけのモノにそんな力はない。正確には、「モノには力があっても、それをひとが生かせていない(どころか殺している)」ことになる。

そしてそういう生半可なお店は、本好きのひとには見限られる。だってつまんないもん。

そうやって中途半端な併設店は本好きには見限られ、そうではないひとには本を買ってもらえず、本以外の併設したモノは本職に負ける、という未来が待ち受けている。

 

「ついで買い」や併設店がすべて悪いというのではない。やるならちゃんと軸を持って、誰に対してアピールするのか、何を売りたいのか、そういうのを明確にして、「本気で」やらないといけない。そういうことが言いたいのです。

 

本好きをターゲットにするなら、キワッキワの棚を作って、その上で最上の「本以外のモノ」を置く。

本好き以外のひとをターゲットにするなら、最上の本以外のモノを丁寧にセレクトして、かつ「見た目だけで」惹きつけられるような力を持った本を置く。

(この観点からすると版元も努力が必要ですね。視界に一瞬入っただけで気になって手を伸ばしてしまうような装丁を考えないと)

 

 

まとまりもなければ明確な答えもないんですが

こんな感じです。

とりあえず、最初に提示した細分化のそれぞれに対する最善の体系・方法を考えていくしかないかと。わかんないけど。

 

 

 

祝・第1回「誰でも本屋」開催&「本屋」lighthouse開業

お待たせしました。

できました。

疲れました。

オフトーンズへの長期契約が締結寸前です。

 

 

今回のテーマは「光」

 

理由は簡単、まずlighthouseだから。

 

 

そしてもうひとつ。僕の人生に光が欲しいから。

会社を辞したので職がありません。来月から無給です。

 

仕事探しの果てなき道を照らす光を僕にください。

 

 

 

そして奇しくも今日、この国は終わりへの一歩を踏み出しました。

共謀罪

 

私たちの人生に光を。

この国に、そして世界に平和の光を。

 

光を生み出すのは、与えるのは

たった1冊の本、あるいはひとりの人。

 

そう信じています。

 

 

テーマ「光」

軸本:海を照らす光(M・L・ステッドマン/古屋美登里 訳 早川書房)

www.hanmoto.com

 

灯台守トムと彼の妻イザベルのもとに天から与えられた希望とは。

灯台=lighthouseを中心にして紡がれる物語であり、人生における光=希望とは何かを考えさせられる物語でもあります。

 

映画化もされましたね。観たいです。

 

それでは。素敵な船出となることを祈って。

 

 

lighthouse 使い方

lighthouseの使い方についてです。

 

まず、本の集め方。

 

1. Twitterに運営者(@gucchi_penguin)よりテーマと軸本が投稿されます。同時にこのブログでも告知&詳細をお伝えします。

 

2. ツイートには #誰でも本屋(テーマ)のハッシュタグがついています。初回を例に出すと、#誰でも本屋光となります。

 

3. 「本屋」のみなさんは、運営者のツイートをもとにして、同様に#誰でも本屋(テーマ)をつけて思い思いに本を紹介してください。あるいはハッシュタグを検索して、すでにTwitter上に照らし出された本から着想を得てください。その際、思い浮かんだ本がテーマから外れてしまっていても構いません。もし「外れてるかも」と思った場合は、どの本から連想したかを明記していただけると幸いです。

 

4. ツイートする際に必要な事項は以下

・タイトル(あまりにも長い場合は適宜省略してくださって構いません)

・表紙画像(版元HP、ネット書店、所有しているものを撮影、など法に触れないものであればなんでも可。表紙以外にも紹介したい部分があればそちらも)

・選書理由、おすすめポイントなど(基本的には140字=1ツイートに収まるイメージでお願いします。ハッシュタグやタイトル分の文字数があるので実質100字程度かと。この部分はlighthouseサイトに反映させる際に使わせていただきますのでご理解ください)

・#誰でも本屋(テーマ)のハッシュタグ(このハッシュタグを検索して収集したものを運営者がサイトに反映させます。必ずつけてください。これさえあれば上の3つはなくてもなんとかなります、たぶん)

 

5. 運営者がlighthouseサイトに集まった本を掲載します。検索漏れはご容赦ください。どうしても!という場合や不安すぎて夜も8時間しか眠れないという場合は、運営者のTwitterに直接飛ばしてください。

 

 

次に、掲載後の利用方法など注意点

 

1. 掲載期間と収集期間は運営者の気分と忙しさによって決まるので特にこれといったものはありませんが、だいたい1ヶ月間程度と認識しておいてください。あまりにもツイート数が多くなった場合にはその時点で収集を終了しますが、前テーマの掲載は短くても1ヶ月は行ないます。

 

2. 「本屋」のみなさんは、lighthouseサイトに掲載された本たちを自由に使って、フェアを組んだり次に買う(作る)本を考えたりしてください。すべてを使う必要はありませんし、どんな形で使っていただいても構いません。報告等も不要です。

 

3. 投稿する本は、基本的には1冊のみでお願いします。軸となる本やテーマ以外からのちに着想を得て「どうしてもこれは!」というものを除いて、1期間に大量の投稿はお控えください。「1冊の本に時間をかけて向き合うこと」がlighthouseの趣旨のひとつだからです。

 

適宜ルールは変更する場合があります。

現時点ではこんな感じです(2017.6/15)

 

 

「誰でも本屋(仮)」β版(もうちょっとセンスを感じる名前にしたい誰か名案をー)

さすがに前回思いついた形でやるのは現状不可能なので、まずは実験的にβ版を。

 

gucchi-zu.hateblo.jp

 

とりあえず発想をもう一度簡単にまとめ&おさらいしておきます。

 

1. ひとつのフェアや企画を実施するための時間と知識が足りない

→いくら棚担当でも全ての本を知ることはできない。ジャンル横断的なフェアならなおさら。

2. 書店員ではないが本屋になりたい人は多くいる

→本を一番知っているのは読者とも言える。

3. フェア・企画用の選書をみんなでやれば素敵なものが出来上がるのでは?

→テーマ・軸となる本を設定しそこから連想した本を投稿し、その中からさらに選書することでより質の高いフェア・企画ができるのでは?

4. ひとつのフェア・企画をひとつの本屋と考える

→練りに練った質の高い選書であれば、点数が少なくてもちゃんと売れる。一箱古本市的な。

5. 本屋とは人である

→本屋が本を売るのではない。本を売る人が本屋なのだ。ならばみんなで本屋になろう。書店が減っているのなら、みんなが本屋になろう。

 

 

それではβ版の説明を。

 

1. 僕がツイッターに軸となる本を投稿します。「#誰でも本屋#軸本」などのハッシュタグ付きです(タグ名は検討します、もう少しわかりやすくかつシャープでオシャレなものを...)。テーマがある場合はテーマも明記し、その本を選んだ理由を簡単に記します。もちろん表紙画像も。

同時にこのブログにも投稿します。軸本の紹介をツイッターよりも詳しく。

 

2. 「本屋」の皆さまは軸本やテーマから得た着想をもとに、「自由に」本を投稿してください。必要事項は

  ⑴「#誰でも本屋」のハッシュタグ(やはりタグ名は要検討)

  ⑵タイトル

  ⑶表紙画像(OpenBDや版元ドットコム、ネット書店、版元ページ、自分の持ってるものを撮影、など法を犯していなければなんでもOKです。表紙以外でも紹介したい部分があれば自由に)

  ⑷理由、おすすめポイントなど。可能であればどの本から着想を得たか、なども書いて頂ければ。そのほか著者、出版社などは文字数に応じて皆さまが入れたいと思えば自由にお願いします(※1)。また、ツイートは数回にまたがってしまっても構いませんが、できれば1ツイートに。ハッシュタグやタイトルの分があるのでそこは考慮しますが、「140字のPOP」を作るイメージでお願いします。

 

  

 

3. 僕が勝手に決めた期間が経過したら、投稿を集計し「誰でも本屋(仮)」のWebページに皆様のコメント付きで反映させます。Let'sマンパワーハッシュタグの検索漏れはご容赦!

 

4. 「本屋」の皆さまはウェブのリストを参考にフェア・企画を実施していただければ、ハッシュタグの検索によって乾いた僕の眼球が潤います。

 

※1 理由はなんでもいいです。とにかく自由に選書してください。文脈棚のイメージなので、軸本に限らずタグを辿って自由に連想してください。大事なことは、本を売る人に対しては「この本を売りたい!」と、本を読む人に対しては「この本を読みたい!」と思わせられればなんでもよし、ということです。お尻を出した子一等賞なのであれば、お尻を出せばいいのです。そういう話です。どういう話でしょうか。

 

あ、大事なこと忘れてました。投稿は1回まで。そして1冊のみです。

なぜなら、「丁寧に本を選ぶこと」がこのシステムの根幹にあるからです。

必死に頭を悩ませひねり出した1冊を、気持ちを込めて紹介する。

それが「本屋」の原点にあると、僕は思うからです。

そしてそれができなくなっているからこそ、いまの状態が生み出されてしまっているのではないでしょうか。ですがそれは、決して書店員ひとりひとりに問題があるのではななく、環境がそうさせてしまっているのだと思います。その解決策のひとつとして、このシステムが何かの役に立ってくれればいいと思います。「本屋」のみんながひねり出した1冊の集まりからさらに選書する。贅沢だと思いませんか?

 

そして本当にごめんなさい。現状では「本屋」になりたいと思っている「書店員以外の皆さま」には、実際に本を売っていただく環境を作れません、主に仕入れの面で。東京圏の人なら神田村などを利用すればなんとかできるかもしれませんが、地方はどうしようもありません......

実際にフェア・企画を実施した書店の方からの「あなたの投稿した本が売れましたよ!」というような報告ができるページを用意できれば......と思っているので、そちらで「擬似本屋」を体験していただくことしかできません。くそー。

 

 

ということで

全国全世界の「本屋」の皆さん、

こぞってお尻を出してください!!!しば犬並みに綺麗なお尻(の穴)を見せてくれることを期待してます!!!これはいったいなんの企画だ!!!

 

 

 

 

 

とテンションをぶち上げたはいいものの

まだWebページが完成率2%なので、スタートまでしばしお待ちください。

それとルールは随時変更する可能性があるのでその点ご了承ください。皆さまからのアドバイスがあれば嬉しいです。すてき!と思えばスタート前に変更もあります。

 

あと誰かもっとシャープなセンスを感じる名前を考えて欲しいでーす。お待ちしてまーす。

せっかくなんで、みんなで「本屋」になりませんか?

思いがけない環境に身を置かれてしまった結果生まれた思いつきです。雑草魂。

 

テーマは「誰でも本屋になれる」です。書店が減少しているなら、みんなが本屋になれる仕組みを作ればいいじゃない。そんな、シンプルかつ無謀な想いから生まれました。

法律のこととかは全く考慮に入れてないし、現実問題として不可能なことも多くあるとは思います。だって現実を知ろうと思って入社したのに、知ることすら許してくれなかったんですから。まあそれはさておき。

とにかく「現実的に無理だ」という指摘は歓迎しますが、「だからこの仕組みそのものが無理だ」という否定は受け付けません。現実的に不可能なのであれば、いかにしてその現実の中で理想に近づいていくかを考えるのが道理だからです。

 

文章のみの説明になってしまうのでイメージがつきにくいかもしれません。僕もまだあやふやな部分が多いです。なのでなんとなくのイメージだけでも伝わってくれればいいです。具体的な部分はこれから詰めます。

 

まず、共有したいイメージは「誰でも本屋になれる」ということと、本屋というのは既存の書店のイメージとは少しちがう、ということ。「本屋とは人である」のイメージに近いです。

 

そして次のイメージは、「読者、書店員、版元、著者など本に関わる全ての人が集まり、情報を共有できるプラットフォーム的な何か」です。僕がいまここで目指す「取次」は物質的な意味での本ではなく、人や情報を取り次ぐ存在です。

なぜこのイメージが生まれたかというと、先日の一箱古本市に参加したことがひとつの理由です。僕は自分なりに限界まで練りに練ったテーマ設定と選書で臨み、32冊中28冊を売りました。そこで感じたことは、テーマを設定し選書をするための時間があれば売れる箱を作れるということ、そしてたった30冊程度の規模でも良い箱が作れるということ、でした。

それに対して今の書店現場を考えてみると、全く逆のことが起きているのではないかと思いました。時間がないからフェアやポップを練ることができない。選書もできない。毎日あまりにも多くの本が出すぎていて、「読んでほしい」と思える本を「見つけること」ができない、など。

たった30冊の、しかも新刊でもない本が、あれほど売れるのに、です。

 

そして先日のとあるフォロワーさんのツイートがさらなるきっかけを与えてくれました。「皆さんはコミックのフェアをどうしていますか?教えてください!」というようなツイートです。つまり、圧倒的な時間不足でひとりではフェアを企画できないのではないか、ということです。それはただの能力不足ではないか?違います。確かにスキルの上達スピードに個人差はありますし、できる人は少ない時間でもできますが、そもそもスキルアップのための時間がなければ向上は不可能です。今の書店現場にその時間があるとは思えません。

そして毎日入荷する新刊&それに伴う返品作業の洪水に飲まれてしまうため、入念な企画を作り上げることができない。あるいは作れても期間が短いから「本が入ってこないうちに」次のサイクルがスタートしてしまう。

 

原因をあげるとキリがないので仕組みの説明に移ります。

 

まずイメージして欲しいのは、最初にも書いた通り「本に関わる全ての人が集まって情報共有をする場所」であり、「誰もが本屋になれる仕組み」の2点です。

<場所>ウェブサイト(もちろん実践の場として現実世界へも展開します)

<参加者>本に関わる全ての人

 

<流れ>

・運営者(または任意の参加者)が軸となる本あるいはテーマを設定します

・その本(テーマ)から連想した本をウェブ上に投稿してください

・投稿された本からさらに連想した本を投稿、の繰り返しとなります(もちろん軸となる本にこだわってもいいです)

・期間は1ヶ月前後などその都度設定します

・期間内に投稿された本はそのページ内でいつでも参照可能です

・期間終了後、投稿された本の中からさらに選書して「自分のフェア」を作ってください(上限冊数あり。30冊など)

・そのフェアを実践してください

 

例えば

www.hanmoto.com

を軸となる本に設定したとします。

参加者はその本の周りに置きたい本を探して投稿してください。

例えば

www.hanmoto.com

さらに

www.hanmoto.com

 

といった感じです。文脈棚、的なものをみんなで作っていくイメージです。

サイトイメージ的には版元ドットコムのAPIを活用したこちらのページをイメージしてます、今のところ。

honno.info

こんな感じで表紙がパッと一覧表示されると書店の棚っぽくてイメージ湧きやすいかと思いますし。

 

で、大事なのはここからです。実践の部分です。

書店員は自店で展開できますよね。でも今までは読む側だった人たちにも「本屋」になってもらいます。ここが肝です。

 

いま考えついているのは2パターン。web展開とヒトハコ展開です。

まずweb。

・投稿された選書リストの中からさらに自分で選書します

・その本を自分のwebサイト等で売ります

・注文が入ったら「版元」からお客様へと直送してもらいます

・販売手数料として一部還元されます

 

次にヒトハコ。

・選書は同じ

・版元→店主。版元→取次→店主。版元→取次→書店→店主などの数パターンから選択して本を入手

リアル店舗として販売

 

ここまでであげたイメージは全て一例であり、理想は各々の希望に沿ってカスタマイズできることです。

とにかく僕がいまやりたいことは、本のことが好きな人が集まって情報を共有できる場所を作ることです。

 

いま思いつくメリットは

主に書店員にとっては

・自分では思いつかない選書が可能になる

・そもそも知らなかった本を知れる

・他人の力を借りて企画が可能(時間・スキル共に補ってもらえる)

など

「本屋」になりたい(けど今はなれてない)人にとっては

・店舗や在庫を定期的にもつ必要がない

・スキルがなくても企画可能

・自分の提案した本がフェアに組み込まれて売れていく様子が見れる(擬似本屋体験?)

など

 

他にも、

・企画準備の期間(選書のための1ヶ月など)があるため、発注→入荷に余裕がある(かもしれない)

・Webページ内に広告を打てる(for版元)

・品切重版未定の本が復活する可能性もある?

 

そして何よりも、

読者から版元まで、本に関わる全ての人がこの場所で繋がることができるのではないか、と思っています。

例えば掲示板のような場所も別で作って自由に意見(情報)交換をしてもらってもいいかもしれません。

 

せっかくなんで、みんなで「本屋」になりませんか?

出版不況だなんだと言われてますけど、個人的には大チャンスだと思ってるので。

もう一度言いますね。

せっかくなんで、みんなで「本屋」になりませんか?

書店が減っているなら、読者にも「本屋」になってもらえばいいじゃないか。

老若男女、揺り籠から墓場まで。日本から世界、火星あたりまで。

みんなで「本屋」になりましょう。

 

本屋が本を売るのではなく、本を売る人が本屋なんです。

いや、本が好きな人は本屋ですね。

なんでもいいから、皆さんの力を貸してください。皆さんが本屋です。

 

 

この現実的じゃない思いつきに対する意見や助言、どんどんください。

現実にしていきたいので。

 

これからもっと具体的なイメージと運用方法を固めていきます。

今日はここまで。

 

 

とりあえず僕は、いんたーねっつとうえぶさいとのことがよくわからないので勉強します。それか誰かたすけてー。

 

それは誰のためなのか?という話

確か前回、「取次をなくす」とかいう物騒なことまでは書いた気がします。正確には「本という物質的なモノを運ぶ取次」ですが。

 

結論から言うと、未来の取次は「データ」を運ぶ存在になる(正確にはならないと潰れる)ということです。究極的に簡単に言えば、「書店店頭あるいは自宅で製本できるようになる」ということです。「製本」というのは誤解があるかもしれませんが。とりあえず今日はこのような抽象的なイメージでとめておきます。まずはその結論に至るまでの過程や思想的背景を説明します。ダメな論文の例ですね。あるいはテレビですかね。一番大事なところを引き延ばして期待させるあの感じですね。

 

僕の根本には、「どうすれば読者のためになるか」という思想的な土台があります。そしてこれをひとつ上流に持ってくると、「どうすれば書店のためになるか」という問いに変わり、それの行き着く先が「出版業界のため」になります。

 

つまり、まずは「読者の幸せ」とは何かが重要になります。整理します。例えば、

 

欲しい本がすぐに買える(読める)

いつでも買える(読める)

どこでも買える(読める)

 

あるいは、

 

欲しい本が見つかる(「欲しい」と思える本が見つかる、見つけてもらえる)

 

といったことでしょうか。もちろん他にもあるでしょう。安く買いたい。著者に会いたい。etc

とにかく根本には、読者の幸せを叶えるには「選択肢を増やす」ことが必要になるのではないか、ということです。つまり、その都度その都度変わる読者の要望に応えられるシステムや環境を作る、ということです。

 

次に書店の幸せを考えてみましょう。大前提としては、「儲かる」ということになりますが、それを実現するにはどのような書店にしたいか、というのを書店の幸せと定義します。つまり上の「読者の幸せ」を書店目線で言い換えるだけです。

 

豊富な在庫量(=欲しい本を見つけてもらえる確率が高い)

注文品がすぐに届く

 

などなど、もっとあると思いますがとりあえずこれくらいで。

そしてもうひとつ重要なことは、書店員が楽しく本を売れる(選べる、並べられる)環境を作るということです。書店員が楽しんでいる本屋は確実に「ステキなお店」です。有名どころだと、例えばさわやフェザン店なんて最たるものですよね。どう考えても楽しんでるじゃないですか(もちろんその裏には努力や苦労があるのだけど)。他にもあゆみ小石川とか。残念ながら閉店しちゃいましたけど、例えばかつてそこで活躍していた久禮さんや有地さんが閉店間際の1ヶ月に色々と仕掛けていたのを見ていると、「楽しんでいる書店員のいる本屋は強い」ということを再認識させられました。

で、楽しい書店員ライフを送るために必要なのは何よりも自由度の高さだと思うんですよね。そしてそう考えたときに最初に思い浮かぶ敵が取次なんですよね。笑

返品率が!これは買切りで!出荷保留です!とか。

パターン配本で大量に入荷する本を荷ほどきして棚に並べるだけで精一杯、とか。

頼むから満数出荷してくれ...とか。

 

つまり敵はストレスなんですよ、読者にとっても書店員にとっても(「欲しい本が(置け)ない、すぐにこない」など)。

そしてそれを生み出しているのは取次なのでは、ということです。

もちろん業界三者にそれぞれ原因はありますが、僕は取次の人間なので自分に厳しく考えます。「取次が、取次のための利益だけを考えているからこうなるんだ」ということです。

 

僕は、取次はできるだけ無色透明というか、みんなのためを考える存在だと思っています(取次の公共性と表現している方がいましたが、その感覚にとても近いです)。もちろんそこには読者が含まれていて、彼らが最優先になりますが、次に書店と版元のためを考えるのが大事だと思っています。つまり、読者が幸せなら書店も版元も幸せになれる、つまり取次も幸せになれる、という連鎖をイメージしています。取次の利益は、読者が本を買ってくれることでしか得られません。なのでそこを最も意識する必要があるのではないでしょうか。

しかし実際には、取次は「自社が楽になる方法」を考えています。例えば返品率抑制のためのインペナ契約など。もちろん返品率は低い方がいいのは確かですが、インペナを取り入れたことで果たして「読者」は幸せになれるのでしょうか。

全然関係ないんですよね。そんなのは業界の事情でしかないんですよ。返品率が10%、いや0%になろうと、送品抑えてスカスカになった棚や、売れ筋しか置いてない書店、「(インペナ契約に含まれている)特定の版元の本しか置いていない」書店になってしまっているのであれば、読者は「つまらん店だ」と思うだけですよね、裏の事情を知っていても知らなくても。あるいは「ごめん!コスト抑えたいからダンボールいっぱいになるまで出荷待ってくれる?」と読者に言ったところで彼らは「それがなに?」って話なんですよね。

 

そしてその業界内問題の板挟みというか被害者になっているのが現場の書店員なんですよね。そして読者自身です。読者の場合は、「本屋がつまらない、欲しい本がない、すぐにこない」などといった体験をすることで被害を受けているわけですが。

 

今日はここまでにします。

次回(できれば明日)は、ここまでのことを踏まえてじゃあどうするか、ということと。

あと世界の風潮というか、時代の流れ、これから世界が向かう先というものがどんなものか、を記していこうと思います。個人的に感じていたことと、様々な本から学んだことのハイブリットです。

そしてそれを踏まえて「なぜデータなのか」につなげていければと思います。

 

それでは。

 

 

下準備

風邪をひきました。39度近くまで出たのでインフルを疑いましたがただの風邪でした。

とりあえず一安心ですが、提出課題が終わっていない状態に変わりはなく、むしろ風邪をひいたことで時間がなくなったというか。インフルになって少し猶予をもらった方がいいような気もしてしまいました。よくないですね。

ということで、課題の下準備も兼ねてちょっとした思考実験をしてみようかなと思います。風邪治りかけのふんわりとした頭で行なうので、その辺はなんかちょうど良い言い訳になってくれればと思います。あと、僕はまだ現実や実態を「肌で」知っているわけではないし、詳しい仕組みがどうなっているのかも知らないので、その辺りの細かい指摘はもちろんありがたく受け取りますが、怒られても困ります。笑

 

議題:果たして取次は必要なのか

 

入社前から何を言っておるのかという感じですが、とにかくそこから考えていかないといけないと思っていますし、なんなら取次志望の理由の一つは「取次が癌だと思ったから」でもあるので、ここは避けて通れない問題かなと。

とりあえず僕の立場を明確にしておきますと、

「取次=摘出手術をすると大量出血で即死する位置にできてしまった悪性の癌」

という認識でいます。

このまま何もしないでいれば癌が原因で死ぬけども、取り除いたら即死してしまう。だから特効薬というか、既存のシステムや秩序なんてものにとらわれない何かを見つけ出さないといけないと思っています。そして大事なことは、出版業界という身体を救うにはどうすればいいかということであって、取次という一器官のためではない、ということです。これは取次を書店や版元と入れ替えてもいいのですが、この「全体を救う」という視点が欠けていてはその場凌ぎにしかならないし、結局自分(=出版業界)の首をしめることになると思います。一例を出せば、取次が取次のために行なっている返品率ダウンの施策ですか?これ、取次以外誰も(読者でさえも)得してないし、結局取次もその煽りを受けているようにしか僕には見えないんですよね。笑

 

とにかく、取次がない世界を想像してみようと思います。現状の問題点も取り上げながら。

 

まず、取次がないということは全てのやり取りがいわゆる直取引になるということです。取次の存在理由は主にここにあるというか、書店と版元のやり取りを簡潔にすることが一番の役割だと思っています。もっと根源的に言い換えれば、書店と版元のサポートであり、彼らが最も効率よく、あるいは効果的に仕事ができるようにお手伝いをする、というのが取次の本分ではないか、ということです。その点では、取次がなくなるのは大変なことだとは思います。もちろんまだまだ足りない部分だらけだと思いますし、むしろ逆効果になるようなことをしていることも多々あるように思えますが。

そこであえて、取次をなくしたらどうなるかです。まず取次任せにしていた店舗は成り立たなくなるということ。何を任せていたか、にもよると思いますが、まず配本を任せきっていたところは無理でしょうね。当たり前ですが。逆に言えば、生き残るところは「取次に任せる部分もありながら、書店主導の仕入れもしていた」店舗になるかと。ちなみにいま、誠光社さんのような直取引しかやってないところは考えていませんが、簡単に言えばそういうやり方に移行できる店舗が生き残るということでしょうか。つまり、99%圧縮して換言すれば、「能力」の有無なんですよね。

でもこの能力は決して天賦の才ではなく、日々の積み重ねでしか手に入れられないものだと思います。毎日、本を見て、お客さんを見て、データを見て、世の中を見て、培われるものではないでしょうか。ですが、この毎日の積み重ねができないほどに書店現場が多忙であることも確かで、能力が育たないことを書店員のみのせいにするのは酷です。というか、その要因の一つは取次や版元だとも思っているので、それはないだろうという心境です。

とにかく、自分の力で本を選べる(あるいは返品する)書店員がいれば、直取引は可能だということです。そしてその育成には時間と経験が必要で、現状のような「多忙すぎる」書店環境では難しいかな、ということです。あと低賃金なのもそうですかね。

そしてここで問題になってくるのが、送品(返品)コストです。一括大量輸送っていうんですかね、そういうやり方でコストを抑えていたからこそ成り立っていた業界でもあるし、ゆえに取次が重宝されていたと思います。さらに最近では運送業界自体がパンク寸前ですし、「小口で頻繁に」というやり方は全く合理性がないとも言えます。直取引になって、店舗ごとあるいは版元ごとの「完全一対一」方式になると、そこがうまくいかなくなるように思えます。

 

ですが、ここでやっぱり取次は必要だよね、という結論にしてしまっては面白くないので、なんとかして取次をなくしてしまおうと思います。笑

正確にいうと、「既存のやり方での」取次ということになりますが。

 

ここでも99%圧縮して言い表しますが、「モノを動かす取次」は終わりということです。「本という物理的な存在をトラックに載せて、モノをモノとして実際に動かす」というやり方を続けていては、もうこの業界は立ち行かなくなる分岐点に来てしまったというのが僕の直感です。

 

今日はここまでにします。全く前に進んでいないような気がしますが。風邪がぶり返して明日のラスト勤務にいけなくなるのだけは嫌なので。

 

 

 

ビッグブラザーの支配する国、日本

去年の11月にトランプさんが大統領になり、post-truthalternative-factsといったワードが登場し、ついに『1984』の世界が現実になってしまったか...と思っていた。大丈夫かアメリカ、いや世界。このままでは戦争が起きてしまうんではないか。過去が改変され、客観的真実が踏みにじられ、憎悪と恐怖に支配される世界が、途轍もないスピードで迫ってきているように感じていた。

しかしそれは間違った認識だったらしい。トランプさんによってアメリカが『1984』的状況になるずっと前から、日本はすでに『1984』だったようなのだ。

 

1984』の世界を理解するためのキーワードは、

過去の改変

二重思考

のふたつである。

過去を改変する目的は至極単純明快なもので、それは「権力の維持」にほかならない。なぜ過去を改変することが権力維持に効果を発揮するのかというと、「正統を流動的にしておくこと」が永遠の権力をもたらすために必要だからである。

ひとが誰かの権力、つまり「他人が自分の上に立つこと」「他人の指示を受け入れること」を許容するには、そのひとに対する信頼だったり、信用だったりが必要になる。そしてその信頼や信用といったものは、そのひとの正しさや能力だったりが根拠になる。上司の指示に従うことができるかどうかは、その上司の「これまでの」言動や実績などを意識的にも無意識的にも考慮に入れている、といえばわかりやすいかと思う。上司を先生に代えてもいいだろう。あるいは親でもいいし、立場が下の人だって同じである。とにかく「他人のことを信頼し、その他人の言うことに従うこと」には、その他人の「これまで」が重要になる。そう、過去だ。

要するに、過去を自由に改変することができれば、権力の維持なんて簡単なのだ。逆にいえば、今までの権力保持者は、過去を改変しなかったから権力を奪われたのだ。過去の栄光は確かに彼の権力を保証するものだが、その栄光はいつ「汚点」になるかわからないからだ。

この世界には、「いつまでも評価が変わらないもの」は存在しない。例えば大学受験に失敗し浪人する、あるいは滑り止めの大学に渋々進学する、そういった「結果」に対してその時点では失敗という評価を下すことが多いが、数年後にも失敗だったと思っていることはそうそうない。いわゆる塞翁が馬というやつだ。個人的な人生経験だけではなく、社会的な決断に対する評価だって時代が変われば変化する。日清・日露戦争に日本は勝利した。きっとそのとき、国民は「正しい」ことだと評価しただろう。そしてそれゆえに太平洋戦争へと突き進んだのだろう。今となってはそのどれも決して正しい選択だったとは思われていない。一部の人はそうではないらしいが。

つまり、先ほどの言い換えになるが、過去の栄光は権力保持者の正統性を担保するものであると同時に、いつか権力者に対して「反旗を翻す」可能性も持っているのだ。その可能性に気づいた者は、過去を改変することこそ肝要だと知る。そしてそれを実行したのが『1984』の世界だった。そしてそれは残念ながら、現実に行われていることでもある。おそらく遥か彼方の昔から。

しかしこの過去の改変にはひとつ問題がある。それは「過去が改変されている」ということを知っていては、権力者の正統性は担保されないということである。その問題を解決するのが、二重思考だ。簡単にいえば二重思考とは、「矛盾することを、矛盾していると知りながらどちらも受け入れること」であり、「都合のいいときに都合のいい方を選択すること」である。

具体例を挙げてみよう。

Aさん(仮名)「素晴らしい教育方針だと聞いています」

Aさん(仮名)「教育方針には賛同していないし会ったこともない」

 

Iさん(仮名)「会ったことない」

Iさん(仮名)「過去に失礼なことをされたのでそれ以来会ってない」

 

現実はフィクションより奇なり。

日報問題もそうだが、二重思考と過去の改変の「独裁セット」が日本で炸裂していることはいうまでもないことだったかもしれない。

そして共謀罪である。さらには秘密保護法だったり、もうお腹いっぱいである。

 

どうしてこうなってしまったのだろうか。そのヒントはやはり「過去」にあった。歴史を知る、歴史を遺すということの重要性に改めて気付かされる。歴史は過去であり、歴史を消す、あるいは隠すことは過去の改変に必要なことである。国民はその手助けをしてはならない。歴史を学び、忘れずにいる必要がる。

ハイエクは『隷従への道』でなぜヒトラーが政権を掌握できたかをこう推察した。

 

いつまでたっても政策が推進も決定されもしない、薄鈍頓馬な民主主義政府にイライラが募った国民は、強いリーダーシップでもって即時決断し実行してくれる人間に飛びついてしまった(ざっくり要約・大胆な意訳)

 

Oh...トランプ エァ〜ンド アベ。

 

未曾有の読み方を間違えたり、「友人の友人がアルカイダ」という発言で辞職だったりなんなりと大騒ぎしていたあの頃が懐かしい。あの当時僕らは、というかこれまでずっと、そんなどうでもいいことはほっといて、もっと有意義なことを議論してくれよ、と思っていた。政治献金だとか脱税だとか、もうそんな話で国会議論を止めないでくれ。そう思っていた。今も思っている。その結果が今のこの現状なのだろう。

前述したが、「いつまでも評価の変わらないもの」は存在しないし、「誰にとっても正しい(有益な)選択」だって存在しないのだ。だからこそ民主主義は「歩みののろい」ものになるのだし、そうならないといけないのだ。簡単に「正しい」「有益だ」なんて判断できるものなんてひとつもないのだから。僕たちはいつまでも悩み続け、己の判断に怯え続ける必要がある。その姿勢こそが民主主義だ。「自分の選択や行為はきっと誰かを救うだろうが、必ず誰かを傷つけるものでもある」ということを忘れてはならない。しかし僕らはその辛抱ができない。「簡単・便利・迅速」に様々なものが手に入るようになった世の中において、幸せや平和、正しさなども「簡単・便利・迅速」に手に入るものだと思ってしまった。僕らは時間のかかること、面倒なこと、熟考を重ねる必要のあることを避けるようになってしまった。

 

それがもたらすものは「過去の繰り返し」である。いや、正確に言い直そう。「繰り返される過去」だ。過去を繰り返したい何者かによって、繰り返されていることを隠して、過去つまり歴史は「繰り返す」のだ。

 

無知と馬鹿について

去年の7月にこんなことを書いていたらしいので

もう一度日の当たるところに出しておきます。


下記、過去の文章です。



権力者は馬鹿と無知を作りたがる。馬鹿と無知は自分たちが支配されていることに気づかないから。賢者のなかの、権力欲に塗れた者が独裁者になる。えてして権力者は賢く、それゆえに世界を支配し得る。

世界が危険な賢者に支配されているまたは支配されつつあると気づいた善良な賢者は声を上げる。しかし彼らはその時点では少数派である。先見の明を持った有能な人間であるが故に、彼らは少数派として大多数の馬鹿と無知に嘲笑される。そして支配者は彼らを排除する、大多数の馬鹿と無知を利用して。馬鹿と無知はここでも利用されていることを知らない。そして正義の味方になった気分になり、利用されているだけの日常に戻っていく。

人々は「常識」「世間」「普通」「みんな」に従う。安全だから。排除されないから。そこに支配者の目論見があることを知らずに。

支配者は賢い。人々が「みんな」に影響を受け、そういった空気に支配されることを知っている。だからその「みんな」と「空気」を作り出す。

様々な方法によって彼らは空気を作り出す。空気に乗るものは大多数の仲間入りを果たし、誰からも攻撃の的にされない安心の中で生活を送ることができる。空気に飲まれない者は孤立し、空気に乗った多数から攻撃される。

ここに、正しさという基準はない。

時に正しさという判断基準は人を傷つけもする。しかし正しさという基準すらない世界は権力者の支配を容易にする。そんな世界にある判断基準はただ1つ、「みんな」である。

そしてその「みんな」を作り出しているのは他ならぬ支配者である。このカラクリに気づかせないために、支配者はあらゆる手段を使って馬鹿と無知を養成する。

其の一、過去を隠す

其の一、事実を隠し、嘘を喧伝する

其の一、外部の情報を遮断する

何かと比較をすることができなければ、「いま」の状況を理解し判断することができない。そもそも情報がなければ思考することもできない。そういう状況を彼らは作ろうとしている。

孤立すること、一人になることを人は嫌う。そのことを彼らは知っている。ならば、僕らはいま、孤独になることを怖がってはいけない。

彼らはまた、僕らにこう思わせようともしている。

「自分一人が何かしたって、どうせ世界は変わらない」

ある当選者の獲得票数が数万票なのを見て、あるいは一位と二位の票数差が大きいのを見て、「結局自分が行かなくても変わらなかった」と思ってしまう。自分一人がここでゴミの分別をしようと、席を譲ろうと、赤信号を渡ろうと、誰かの悪口を言おうと、世界の進行には全く影響がない。と。

嬉しいことに、世界はその一人一人の行動の積み重ねで動いているらしい。いや、悲しいことに、といった方がいいかもしれない。見えにくいから気づかないだけで、意外と自分の行動が世界の大勢に影響を与えているらしい。それに気づくのはことが終わった後のことで、歴史の教科書にページが割かれてからなのだけど。

あの時、この積み重ねが戦争につながっていくと気づいていた者はほとんどいなかった。いてももみ消された。支配者に利用された大多数の馬鹿と無知に。戦争が始まってから、あるいは終わってから、あるいは終わって数十年が経ってから、人々はあの時の自分たちの「小さな」積み重ねの意味を知った。またはいまも気づいていない。誰もみな、あの時の牛乳一口がいまの健康に影響を与えているとは思えないように。

僕らはそれが大きなものになればなるほど、自分たちの与えられる影響なんてないと思ってしまう。関係なんてないと思ってしまう。選挙しかり、サークル運営しかり。

いまここで「戦争反対」または「戦争賛成」と訴えても効果はないように思ってしまう。そして支配者は、その「小さなこと」が世界を動かすことを知っている。だから少しずつ、見えないように、積み重ねていく。

馬鹿と無知はその積み重ねに、自分が加担していることに気づかない。そのくせ、「自分には影響力なんてない」と思っている。

気づく者もいる。しかし少数派になることを恐れ、声を上げることができない。

声を上げたものは、排除される。支配者と、馬鹿と無知によって。


歴史は繰り返す。なぜなら人は歴史から学ばないからだ。いや、学べないといった方がよいかもしれない。学ばせたくない人がいるから。そしてその人は、歴史を知っている。人々がいかに歴史を繰り返してきたか、という歴史を。支配者は賢いのだ。


こんなディストピアを迎えたくない。現になりつつあるけども。

僕らは知る必要がある。学ぶ必要がある。そして、孤独になる覚悟を持たなくてはいけない。

考えることは、孤立することでもある。他人と違う結論を導き出し、実行する怖さ。そして覚悟。

自分には世界に対する影響力がある、という覚悟。責任。そして自信。

お前には世界を動かす力がある。

ようこそ馬鹿と無知諸君、ディストピアへ。

君たちにはのびしろがある。いや、のびしろしかない。

そしてそのことは、世界にものびしろがあることを意味する。

きっとこの世界には希望が満ち溢れている。

僕たちには世界を動かす力がある。そのことを知っていて、僕たちを利用する権力者がいる。知らずに、利用される僕たちがいる。

大事なことは何度でも繰り返して言う。大事だから、「わざと」繰り返すのだ。


さて、僕らはまた歴史を「繰り返す」のだろうか。それとも気づかないうちに「繰り返させられる」のだろうか。

これまで人類が成し遂げてきた数々の偉業を、僕らは「意識的に」「繰り返す」必要がある。欲に塗れた権力者が、彼らにとっての大事なことを繰り返す前に。

きっとこの世界には希望が満ち溢れている。



以上です。


村上春樹にまつわる、知っていれば人生のスパイスになるといえば聞こえはいいが、実のところさして重要ではないお話

新刊が出るので僕にとっての村上春樹を記しておきます。

最初から最後まで「意味のない」話ですが。

 

村上春樹の作品は好きではある。すごい好き、というわけではない。

強いていうなら、好きと嫌いを半分に分けて好きを選び、その好きをさらに半分に分けた真ん中近辺誤差数センチ、といったところか。

具体的に言えば、『カフカ』『世界の終わり』『1Q84』『ノルウェイ』は読んだが、『ピンボール』や『多崎つくる』は読んでいない。『騎士団長殺し』もまだ読む予定はない。

 

つまり「なんとも言えない」というのが最も正確な表現であり、それは村上春樹の作品を読んだ後の感情と同一のものでもある。なんとも言えない、ということだけは言える、というやつだ。

この文章も村上春樹っぽい文体で書くことを意識してやっているが、その再現度は30点といったところか。なんとも言えない。

 

とにかく僕は彼と、確か中学1年の頃に出会ったと記憶している。父が「これ読んでみろ」と差し出してきたのが『カフカ』だった。父曰く、「アイロニーとメタファーだ」とのことだったが、おそらく父はよくわかっていなかったに違いない。なんだかとても自慢気だったが。

結局僕もよくわからなかった。何がアイロニーで何がメタファーなのか。でもストーリーは面白かったし、なんとなく、「好き(...なんだと思う)」と思った。ただ結末のもやっとした感じだけは心に残った。というか僕はそれが「いい」と思えるタイプの人間だったのだ、だから「好きの真ん中近辺誤差数センチ」にいる。

 

これから、村上春樹の何が僕の心の琴線に触れたのかを少し掘り下げて考えてみることにする。それはきっととても大事なことになるに違いない。あるいは完全に無駄になるだろう。

 

改めて思うことは、村上春樹の作品の世界観はいわゆる「ライトノベル」に近いということである(少なくとも僕が読んだ作品は)。ふたつの世界が同時進行し、あるいは登場人物が行ったり来たりする、というようなファンタジー要素。そしてその混線する世界線において展開される男女のあれこれ。

しかしどこまでいっても物語の雰囲気は曇り空のままだ。『1Q84』なんて、『高速道路から降りたら月が2つある異世界に飛ばされてしまったキミと僕の(以下略)』というタイトルをつけられて背表紙のタイトル文字が緑や青のあの文庫になっていてもおかしくない設定とストーリーであるにもかかわらず、である。

異世界的な設定と恋、そして頻繁に繰り返されるセックス。同じ設定でラノベが何本も書けるだろう。しかし村上春樹の手にかかれば全て曇り空になる。

とにかく僕の脳内では、いつも空は曇っている。たとえ本文に「いつの間にか眠っていたらしい。なんだかとても大切な夢を見ていたような気がするが、とにかくいま僕の中にあるのははやく彼女を探しに行かなければという感情だけだった。だから僕はトーストと目玉焼きを手早く作り、新聞の天気欄を読みながらそれらを食べた。まるでいま僕の胃の中に落ちていった目玉焼きのような天気図が、晴れということを伝えていた」とあったとしても、僕の脳内イメージはどんよりとした曇り空である。きっと、その本文の後ろには、「しかし実際には僕の部屋のカーテンは閉まっており、その僅かな隙間から漏れ入る光だけでは正確な天気はわからなかった。しかも新聞はおとといのもので、まるで彼女のように気まぐれないまの季節の天気では、予報などなんの意味もない」という文章が、フリクションボールペンで書かれているに違いない。冷やせば出てくる、きっと。

 

とにかく万事そういった調子で物語は進み、さらに追い討ちをかけるように「ハッピーエンドともバッドエンドとも言えない結末」を提示されることになる。

いや、バッドではないけどハッピーか...?んー。なー。となる。それはまるで軽口を叩き合えるほどの仲ではないクラスメイトの女の子(大人しめ)に告白され、返事を渋っているうちに彼女の親友(強気)に呼び出され、3人揃った状態で親友に「好きなの?嫌いなの?はっきりして」と問われたときのラノベの主人公が感じる戸惑いと同じかもしれない。「いや、嫌いじゃないけど好きっていったらじゃあ付き合えばいいじゃんって言われるし、でもそれほどは好きじゃないんだけど嫌いって言ったら怒るよね、親友。っていうか彼女泣きそうなんだけどえー嫌いって言えないよこれ、えー」

 

つまり非常にモヤモヤするのである。

 

しかもさらにタチの悪いことに、「なんかわかったような気になる」程度には物語の筋が理解できてしまうのだ。例えばピンチョン作品や夢野久作ドグラ・マグラ』のように、「誰だよこの面作ったやつ!クリアできるわけねーじゃんなんでスタートと同時に地面からトゲトゲの花出てくるんだよバカかよ」という超難易度高めのものではない。具体的に言語化するならば、ある程度の強敵が常に頻繁に出てくるのになぜか倒せてしまっていて、さらに「あれ?いま俺呪文唱えた?唱えてないよね?なんで敵消えたの?え?倒したの?まじ?」となりながら進んでいくような感じである。ちなみにラスボスは誰かが倒してて、しかもそれによって世界は平和にもさらなる混沌にもなっていない。

 

モヤモヤする。でもクリアはしている。

読み終えた達成感はあるが、どうもしっくりこない。

「え?なに?エディプスコンプレックス?ちょっと難しい!」とか思いながらも読み終えてしまった。でも空は晴れない。嵐も来ない。いつまでたっても曇っている。

 

たぶんこれはあれだ、あれである。

例えばテストで100点を目指して必死に頑張ったが結果は65点だった。でもクラス平均は45点だったから、決して悪いわけではない。むしろいい方である。というような感じか。

あんなに頑張ったのに、と思うと納得はいかないが。でもこの難しさなら仕方ないよな、とも思う。そんな感じ。え?でも頑張ったのにこれ?でもそんな悔しくないな...

すごい嬉しいわけでもなく、かと言ってすごい悔しいわけでもない。

だからモヤモヤする。

まるで現実の人生のようである。

 

つまり村上春樹がクセになる理由の一つは、設定とストーリーはどう考えても現実離れしているのにまるで現実の人生のようなモヤモヤを残す結末を作り出せるすごさ、である。

登場人物の性格やスペックも現実離れしている。僕だったら慌てふためいてあわあわしてしまうような状況下においても、彼らは落ち着いている。とにかく先ずはコーヒーを淹れて、スクランブルエッグを食べる。なんならテレビをつけてNHK国会中継を見るともなしに見るくらいの余裕まである。

そんな彼らが突拍子もない世界の中で動き回っているのに、やはり空は曇っている。

そして結末は躍動しない。

 

 

結局村上春樹の何が好きなのかはよくはわからなかった。というのが結末である。

でもゼロじゃない。その程度には理解できた。かもしれない。

そしてこのように、ああでもないこうでもないと持論を展開し、そのことに満足することこそが村上春樹を愛する者としてのあるべき姿だとも思っている。

そして、「村上春樹の作品はよくわからないんだけど、そこがいいんだよね、なんかクセになるんだよね」と言ってちょっと「なんか良さげ感」を出すのが、村上春樹を語る際に取るべき姿勢だとも思っている。

そして僕はそう言った意味においては、完璧な村上春樹ファンであり、「新作はすぐには読まずにほとぼりが冷めてから(むしろ文庫になってから)読んで、ふむふむ今回はそんな感じかなるほどね、って言いたい」僕は完全に村上春樹の世界に入り込んでしまっている。

 

いま空にはきっと月が2つあるに違いない。僕はなぜかそう確信している。

 

カーテンはしまっているけれど...